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性癖はカニバリズム

※十八歳以下の方の閲覧をお断りします。

この界隈に舞い戻ってきて思い出したことがあった。私の性癖はもともとはカニバリズムであった。カニバリズムとは人肉食のことで、もともとは民族的に行われていたとされている。亡くなった身内を食べたり、殺した敵を食べたりする。どちらも、その人の力を体内に取り入れるという儀式的な要素があったのではないかとされている。近年では漫画やアニメ「進撃の巨人」のストーリーにこの身内を食べたり敵を食べたりするという様子が描かれていて、これらによってカニバリストが増えたりしないだろうか。孤独な性癖なんで……。

作者の来歴としては、小学生~中学生頃に、死体に異常に興味があり、小説そして映画「羊たちの沈黙」でハンニバル・レクター博士が人肉食を行うというのを見て惹かれに惹かれた。そしてレクター博士の原型となった連続殺人鬼を調べるうちに、これは究極の愛だ、いつか私もやってみたいしやられてみたい-と強烈に願ったものの、(これは犯罪だな……)という冷静な自分もいて、叶わない願いは抑圧して忘れてしまうことにしたのだった。

しかし、本当に数十年ぶりに思い出したが、私の性癖の原点はカニバリズムであった。とはいえ、「誰にでも」ではない。「愛」が絡む。「愛する人に殺されて食べられたいし愛する人を殺して食べたい」のだ。

ただ、愛する人に殺されたい(愛する人を殺したい)、愛する人を食べたい(愛する人に食べられたい)という思いは、そこまで異常であろうか。いや、異常なんですけど。

例えば、愛するものを亡くした時、火葬後その人の骨を衝動的に食べた-といったことは、作者の知人も行っていたし、過去、俳優さんでしたことのある人もいた。これを調べてみたら、日本にも火葬後、故人の骨を食べる「骨噛み」という風習があるとのことであった。愛する人の骨を体内に取り込んで弔うという神聖な風習である。https://syukatsulabo.jp/funeral/article/13422

自然に亡くなった方のお骨であれば、社会的に許容範囲内であるようだ。これにちょっと肉とか内臓がついただけじゃないか(?)。

では、殺し殺されるのほうはどうか。これについては明らかに異常であるものの、説明できなくはないようだ。

「女子高生に殺されたい」古谷兎丸著の漫画がある。※ネタバレ含むリンク→https://honcierge.jp/articles/shelf_story/7315

作中で、「殺したい殺されたいという思いは、愛したい愛されたいという思いの究極に病んだ形」という一文があって、私は、その文章を読んで泣いた。そうか、私のあの衝動に説明がついたのだ。

ここに強調するのは、骨噛みにも、殺したい殺されたいにもまつわるもの、それは「愛」であるということ。

骨噛みにちょっと肉とか内臓がついて、で、自分が究極に愛したい愛された人にしたりされたりするのだ-と考えれば、私の性癖は意外と説明できるのかもしれない。

私は幼児期、最も愛する身内に「殺して」と懇願され続けたことがある。丈夫だった人が老いて身動きできなくなっていく、あまりに悲しい姿だったので、殺しあげて自分もそのあとを追って自殺してあげることが愛なのではないか、と幾度もためらったことがある。そうして彼女の生きるという苦しみが終わって、洗われたような白いお骨になったとき、すべての記憶と共に体内に取り込んでしまいたい、という衝動に駆られた。しかし、やっと生きるという苦しみが終わったのだから、改めて体内に取り込んで生かし続けるという選択はあまりにも残酷だと、食べるのをやめた。もしあのとき思い切って骨を食べてしまっていれば、少なくとも「殺して食べる」ほうは、残らなかったかもしれない。

ちなみに、いまのSM界隈では嘆かわしいことに(?)セックスが主流であるようだが、まだまだSMがアンダーグラウンドの世界のものであった十年くらい前にはわりとこの「殺したい殺されたい」「食べたい食べられたい」にまつわる性癖がある人々が居たのだ。

例えば作者はとあるSMチャットで、「殺したい」という待機文に惹かれて入室したことがある。その人は、愛する人を殺し、残りの人生を刑務所に入って自分の罪と愛する人の記憶に浸りながら生きていきたいという人であった。何回もその人とチャットでやりとりし、そのうちに電話番号を交換し、ついに「ぬいさんを殺したい」と伝えてもらったことがある。感情の抜け落ちたような低い声が耳の底に残っている。彼は今どこで何をしているのだろう。なぜ、実現しなかったかは忘れてしまったが、これは直球で「殺したい殺されたい」の性癖である。

それから、作者の命を救ってくれた、いまも兄と慕っている人の性癖は飲血であった。彼はパートナーたちを少しずつカッティングして血を啜り、終わった後は切り傷に良い温泉に連れて行くという徹底したアフターケアつきだった。自傷癖のあった私に対して、自傷したらすぐ画像を送るように、ほかの人々のように決して否定しないから-そうして血を飲みたいな、と伝えてくれた、その言葉にどれほど救われたことだろう。

飲血は「食べたい食べられたい」にまつわる美しい性癖だろう。

(いまや下品な性癖として蔓延っている飲精やスカトロジーなども、「その人の命を生きながらにして取り入れたい」といった神聖な衝動が原点だったのかもしれない。)

そもそもSM性癖というのは、S=サド侯爵の倒錯した快楽殺人願望と、M=マゾ伯爵の殺されたい願望からきているのだ。殺し殺されるというのが原型である。

そうして、SMというからには、サディストとマゾヒストの願望が一致した時に実現する性愛行動である。

苦痛系も快楽系も羞恥系も、すべては、「殺してしまう/殺されてしまうかもしれないほどの」苦痛・快楽・羞恥を与える与えられるに関連し、ある程度様式美されてきたのではないか。多少強引につなげてしまえば、ペット化・家具化・奴隷化などは、「M側の人間性」を「S側が殺す」ということになるのかもしれない。

ついでにいえばそもそもは日常に飽いた貴族階級に多い性的逸脱行動であって、作者が「お願いだから皆さま、ある程度美しくSMを行ってください。」と主張するのは普通のセックスよりレベルが高い性愛行動であってほしいという思いがあるからだ。

最後にもう一度強調したいのは、「殺したい殺されたいという思いは、愛したい愛されたいという思いの究極に病んだ形」で、それらを性的な快楽に昇華したのがSMという性愛行動で、サディストとマゾヒストの想い合う愛が噛み合い合致してこそ行われる。双方愛しあわなければ意味がない。

愛が何かをつらつら書けばこれまた一冊の本になってしまうだろうから割愛するが、愛しているならこれをやれなどというのはただの幼稚な脅迫であってDVであり、SMでもなんでもない。幼稚なサディストもどきは、たとえマゾヒストであってもぶん殴るべきであると主張して、逸脱気味の記事を書き終える。

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