国語のセンセイ~センセイの鞄~
高校を卒業してから何年かたち、用事があってもう一度その高校の門をくぐった。全く背がのびていないのに、とても校舎が小さく見えた。
三年間お世話になった国語の先生がまだそこにはいらっしゃった。
ああ、と先生は私の顔を見ていい、しばらく名前を探している感じだった。
「先生。ませ・ましか・まる・まし・まし・ましか・まる。」と言ったら先生は吹いた。
「やめなさい。ものすごく罪の意識にとらわれてしまうから」
古語の助動詞「まし」の変化である。
勉強が大好きなクラスメイトが、その時にならったことはすぐに、次の休み時間に覚えるんだと言って、わたしを巻き添えにして暗記をしていたことがあった。そのときに覚えさせてもらった変化形だ。
「まるで呪いのように、わたしにしみついてますけど、今は全然役に立ってないですよ」
と言ったら
「そりゃそうだよ。きみのは呪文にしかすぎないんだから」
と言って、爆笑していた。
「あすなろの木」の読書感想文を書かされた時は、「君の解釈は作者のそれとまるっきり反対の物だ」という評をいただき、再提出を喰らった。「だからどーしろと・・・?これだから感想文はきらいです」と表紙に書いて、再提出した。「どうしようもないな」と大きく赤ペンで書かれて返ってきた。
卒業文集に載せる短歌にいたっては、授業はほぼ外をみてすごしていた私にとって、高校の主な思い出は外に植わっていた大きな大きな松の木だった
「おちてゆく 成績さらに おちていく 落ちぬものは 松の針のみ」
と書いて提出したら
「君ね。一生残る文集だから。もうちょっと恥にならないものを書きなさい」
と言われて、その場で
「かわりゆく 季節年月 そして今 かわらぬものは 松の色のみ」
と書いて「つまらなくなりました」と言って出した。
最初の国語の授業で、「十二支を言いなさい」と言われ、しょっぱなで立たされたのがわたし。「ねうしとらうたつみ・・・あれ?なんだっけ」と言った瞬間に一時間立つこととなった。
あれから3年間。先生は私を離さず、常にトンチンカンな答えばかりを出すわたしに意見を言い続けた。
おかげで国語はあまり好きではない。国語は否定の世界だ。
センセイの雰囲気は、この映画にでてくる先生にそっくりだ。
ただ、高校の先生の声は、ものすごく深く、素晴らしいものだった。テノール歌手になれるのではないかと思うほどのほれぼれとする声だった。聞いているのがとても楽しかった。三年間聞き続けたが、国語の内容が全く入ってこなかったのは、あまりにも声が良かったせいだ。
その声だけは、耳から離れず今も
「君は、へんだ」
という名言と共にわたしの心の中に残っている。