哲学カフェ(2021/5/29)ハンナ・アレント「人間の条件」~人間は新しいことをするために生まれてきた~
毎度同じみ。神奈川県川崎市中原区の「ホテル精養軒」で開催される「ナカテツ」。哲学カフェでございました。
場所はこちら!まだ家出の機会がなく、泊まれてないのが残念。
さて。今回の哲学カフェですが、記録更新です。
一段落。
何が?
ええ。一段落。
一段落。
一段落
一段落だけ進みました。
一段落だけ進みました!!!
ぶらぼーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!
こんな贅沢。ございますか?
一段落だから、今日のレポートはあっさり終わるかもしれない。
ところで
はい!盗撮成功です。
多分なのですが・・・前回は表紙があったはず。
先生・・・ガムテで補修されたのですね・・・
最高です。
表紙、ないのですね。
最高です。
本当に今回は一段落ですからね
この本のどこを読んだか。
46ページの半ばから47ページの6行目までです。
一段落です。
でも非常に難しいことが書いてありました。
驚いたのだけど、今読み返したら、読んだ記憶がない。あの場で朗読したのは、このわたしだったのだが・・・
早速ここで出しますかね。
先生も「難しい」とおっしゃるこのくだり。どういうことがかいてあるのか。
つまり。
話し合いとはなにか。お互いが、自分の経験、各自が見たものから得たことで、話をすること。
これに関連付けて、285ページに飛びます。
どんな悲しみでも。それを物語に変えるか、それについて物語れば、堪えられる。 イサク・ディネセン 筑摩書房「人間の条件」ハンナ・アレント
いろいろな人が次々と新しいことをしている地域は、楽しい。そしていきいきとしています。そこに住む人達が、自分のこの世界を彫刻していくようなものです。
労働とは,生きていくのに必要だからすること。
仕事とは、頼まれてやるもの。
そして活動とは、新しいことを始めること。
「何の意味があるのか」など関係なく集まり、話し合うのです。
古代ギリシャの悲劇
「オイディプス王」という話があります。
紀元前の作家ソポクレスの書いた、家族内で起こる悲劇がこれでもかと発生し、それが一代では終わらずに子孫にまでいく、という救いのない話です。
「エディプスコンプレックス」という言葉の由来になったお話ですね。
エディプス・コンプレックス
Oedipus complex
精神分析の用語。男子が母親に性愛感情をいだき,父親に嫉妬する無意識の葛藤感情。広義にはエレクトラ・コンプレックスも含む。人間は乳幼児期から性愛衝動をもち,無意識に異性の親の愛情を得ようとし,同性の親に対しては嫉妬するが,この衝動は抑圧されている。このことを十分理解してなんらかの方法で解放しないと,一種のしこりないし屈折となり,のちに神経症を発症することがあるという考え方。父親を殺し母親と結婚したギリシア神話のエディプス (オイディプス) 王にちなんで名づけられた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について
紀元前からまったくもって人間は変わらないのね。と、思ってしまう。
古代ギリシャのアテネには「ディオニューシア祭」というものがあり、神への捧げものとして演劇が上演されました。悲劇的な内容が主であり、モチーフには神話ベースのもの選ばれることが多かったようです。その中で最もよかった悲劇を選ぶコンテストがあったのですが、ソポクレスはその中でもダントツの表彰数だったようです。1200編ものの話を書き、現代には7編ほどの悲劇が残っている、とのこと。
「現代は、あまり悲劇が書かれなくなりました」
参加者の中から出た言葉。言われてみれば、そうです。わたしもあまり見ない。見ていてつらくなるものを直視できなくなっているのかもしれません。
それは悲劇を直視することができないくらい精神が弱くなってきているからなのか。今が悲惨すぎてせめて物語の中だけでも平和や幸せを求めるからなのか。平和な社会に生きている証拠なのか。
いろいろなつらいこと悲しいことがあったにもかかわらず、古代ギリシャの人々は「ポリスに住む」「ポリスで経験したこと」から、「かがやき」を与えられたのです。人間として生きた。
正確に言えば、ポリスというのは、ある一定の物理的場所を占める都市=国家ではない。むしろそれは、ともに活動し、ともに語ることから生まれる人々の組織である。そして、このポリスの空間は、ともに行動し、ともに語るというこの目的のために共生する人々の間にうまれるのであって、それらの人々がたまたまどこにいあるかということは無関係である。「汝らのゆくところ汝らがポリスなり」・・・(筑摩書房 「人間の条件」ハンナ・アレントP320 l4~)
人々があつまり、それが平等であれば、ポリスはどこでも発生するのです。
そこから活動が始まり、人間は「輝く」ことができるのです。
最近、こんなものが出来たそうです。「労働者協働組合法」です。
働く人が自ら出資し、運営に携わる「協同労働」という新しい働き方を実現する労働者協同組合法が4日の参院本会議で、全会一致で可決、成立した。2年以内に施行される。やりがいを感じられる仕事を自ら創り、主体的に働くことを後押しする仕組み。介護、子育てといった地域の需要にかなう事業が生まれ、多様な雇用機会の創出につながる効果が期待される。(坂田奈央)
社長をおかず、出資をしてみんなで経営する運営方法です。
これは・・・現代のポリスではないか。
株式会社でもない。クウラドファンディングでもない。
現代の「ポリス」です。
人が人の中で輝くこと。
それが、本当に人が感動するときなのです。
活動、しましょうね。みなさん。
トゥキディディスの罠
従来の覇権国家と、台頭する新興国家が、戦争が不可避な状態にまで衝突する現象。
急速に台頭する大国が既成の支配的な大国とライバル関係に発展する際に、それぞれの立場を巡って摩擦が起こり、当初はお互いに望まない直接的な抗争に及ぶ様子を表現した言葉である。現在では、国際社会のトップにいる国はその地位を守るために現状維持を望み、台頭する国はトップにいる国につぶされることを懸念し、既存の国際ルールを自分に都合が良いように変えようとするパワー・ゲームの中で、軍事的な争いに発展しがちな現象を指す
今回、脱線に脱線を重ねる哲学カフェの中において、宗教の話が多かったように思います。
現在、大変なことになっている。シリア。
佐藤先生はこの国のモスクの中にある廟を見て、とんでもなく驚いたそうなのですが・・・
廟には誰が祀られていたのか。
イスラムのモスクの中に祀られていた人。それは・・・
洗礼者ヨハネ
イスラムの聖地に。ヨハネ。
シリアのダマスカスにおいては、イスラム教とキリスト教は仲良く暮らしていたのです。わたしは、今まで起きた戦争は宗教が原因だ、というのをどこかで学んだように思います。宗教同士というものはお互いに相手の存在を許さないものだと。
ちがうんだって!
みんな知ってた?
わたしはびっくりしたんだよー!
そもそも宗教同士が仲良くできるなんて、知らなかったよー!!!!!
無知っていいよね。知ると感動する。(ものによっては恥をかく)
違う宗教の人を自分のところの聖地に祀るなんて、今のこの日本でもあまりみかけません。お寺の中にヨハネ。とか理解できます?
宗教って本来、寛大なものだったのか!!!!
日本も、山岳宗教から仏教へと展開していき、変遷を経ていまに至ります。
宗教も、社会の中でそぐわなくなってくることがあります。その時代をその時の人々はどのような気持ちで生きているのか。それに宗教がそぐわなくなってくると、大きな宗教改革が起こり、「宗教を変える」という事態が発生します。
天才中の天才である空海が、遣唐使として長安にわたったこととか、長安から持ち帰ってきたもの、こと、宣教師が日本にやってきたこと、日本の中でも様々な変遷があります。その都度、そのときの社会で人々がどのように感じ考え生きていたか。それによって何が受け入れられてきたのか、どう受け入れたのか、ということを繰り返してきた、というわけです。
自民党がLGBT法案を取り下げる
ちょうどこのときにニュースとなっていたのが、この話。差別をなくすはずのLGBT法案です。なんで取り下げたのか。
詳しくはわからないけれど、この法案の話になったとき、「この法案に賛成」と「まだ早い」の2分にわかれました。
まだ早い、の人は「性同一性障害のことをもっと深く議論したほうがいい。問題はそこだけなのだ」ということをおっしゃっていました。
なるほど。
ここででてきたのが、ホセ・マルティ。キューバの詩人です。
1920年代にホセ・マルティが書いた著書に中に「わたしたちが目指す社会はアメリカではない」という文があるそうです。
こちらの記事より引用します。
(革命広場のホセ・マルティ記念館)(パルケ・セントラルにある肖像)
マルティは米国の軍国主義がラテンアメリカにも及び、その支配下になることを懸念していました。彼の死後、米国が第二次独立戦争へ介入することで、キューバはスペインからの独立を果たしますが、実質的に米国の支配下になりました。皮肉にもマルティの懸念は現実のものとなってしまったのです。しかし、彼の思想はその後に起きるキューバ革命の立役者たちに大きな影響を与え、革命後は米国の支配からも離れてキューバは完全な独立を果たします。彼の思想、文学は現在まで受け継がれており、キューバでは英雄として称えられています。ハバナを代表する公園パルケ・セントラルにある肖像、革命広場にそびえ立つ大きな彼の肖像からも、彼がキューバを代表する英雄であることが良く分かります。
佐藤先生がキューバを訪れたときに、本当に感じたのは、「キューバの人たちはキューバ人としての誇りを持っている」ということだそうです。アメリカの黒人は差別の中で生きていたけれど、キューバの人たちは違った。キューバはカストロの社会主義とホセ・マルティの思想がもととなって人々は生活していて、1920年代にホセが書いた著作には「私たちが目指す社会はアメリカではない」という言葉があるそうです。
黒人と女性の自由度を一番に見直した国。キューバ。
いや、わたしは行ったことがないし、キューバの人たちを存じ上げないので、彼らの深層心理まではわからない。記事や論文もそう多くない(チラ見しかしていないけれど)もしかしたら差別はあるのに、「ないこと」にしようとしているかもしれない。実態はどうなのか。いつか行ってみたいなとは思います。自分の肌感覚として感じてみたいですね。
プラトンが悪いんだよ
ところでですね。プラトンは芸術に対してとても否定的でした。感覚というものを信じていなかったのかもしれません。そして哲学者が国とを統治すべきだと主張したのです。
ハンナ・アレントは、それらを完全に否定。彼女自身が「哲学者」と呼ばれることを嫌っていたのです。
民主主義・共和政・社会主義・・・いろいろな国の形態があります。
1930年くらいから民主主義が出てきましたが、それは「おろか主義」とも呼ばれていたらしく。おお。わたしは今、「おろか主義」の中にいるのか笑。紀元前399年。ソクラテスは言いました。「民主主義は信用できない」。
なんとまあ。紀元前にそれを唱えていたという・・・
アレントのいうところの「民主主義」は、代議制議会主義。「これはやむを得ない方法」だと言っている。
それに対し、共和政は、可能な限りすべての人が主権を持ち、民衆が中心となる。
さあ。どっちがいいか。
代議制議会主義。まあ、政治家と民衆が遠く離れてしまう危険性、というのを今の日本は孕んでいる、
共和政は、世界でここまで人が増えてしまったら、話がまとまらん、めんどくさい。
国の作り方は難しいものです。それこそ、この時代に、この社会で、人々はどう生きているのか、どう生きたいのか、その流れで自然と決まっていくのではないか。(自然と、という表現が正しいのかどうかわからない)突然独裁者、権力者が現れ、多くの民衆がそこへ流れていくのも、「流れ」というところでは必然の現象なのかもしれませんね。
とにかく、アレントは主張しています。哲学カフェの場でもなんでも出てくるフレーズです。
「政治は利害が関係するものではない」
政治家の皆さん。腐敗した土壌にいるなと感じたら、革命ですよ。自然に発生する革命です。
願わくば、権力者も独裁者も現れない、優しい革命を。
それって、どんなものなんでしょうね。
クレタ島のミノア文明
佐藤先生が、ぜひ見てほしい、ぜひ行ってほしいという場所の一つに(毎回増えていく)クレタ島があるそうです。
私たちが習ったのは4大文明。
その前にすでに素晴らしい文明がありました。
それがミノア文明です。
エーゲ海の島。クレタ島。そこに美しい宮殿が築かれていました。
クノッソス宮殿です。
この中の壁画の絵を見ていただきたい。
佐藤先生が声をひっくり返してまで主張した「こんな優雅な壁画があるのか」「こんな優雅な文明が紀元前にあったのか」という言葉。
まさにその通りなんです。
美しい天女のような女性が描かれていたり、色彩も豊か。素晴らしい壁画の写真、ぜひ見ていただきたい。
女性が神官を務めていたりして、女性の活躍は他国に比べて目立ったものだったということです。
そして、この宮殿はなんと!
市民が協働して暮らしていた場所だったのです。
なんとすごいんだ!!!
そんなの聞いたことなーい!
またもやびっくりです。
1500年戦争がなく、貿易も上手だったらしい。豊かな国だったのですよ。日本はまだ、戦後76年。徳川だって、300年。
そうだ。まずは1500年、戦争しないことをめざそうか。
この文明に学ぼう。
みんなが心の中に共通の神殿を持ち、そこで協働して活動し、みんなそれぞれに輝いていれば、きっと自分の内側が満たされて、戦争なんてしなくても済む。戦争は、足りないものを充足させるために、だれかが起こすもの、なのかもしれないから。
あ、縄文時代にも学ぼう。弥生時代から現代までの年数よりも長いといわれる縄文時代。争いがなかったといわれています。
農耕を始めて、「自分のもの」という概念が生まれたときに、人間は不安と欲との戦いをはじめたのかもしれません。
そこから生まれる権力。支配欲。これは本能なのかなんなのか。
これは、哲学カフェのアフターでの会話でした。
哲学の端切れ
はああああああああああああああああああああああああああああああああ
たった一段落なのに。
なんと往生したことか。
「宗教は共存していた」という結構衝撃的な事実だったこの日。
どこからか世界は、非常にきついものとなり、
相手を許容する、ということができなくなっているように感じます。
哲学だって、自分の主張を声高にするだけじゃ、哲学にならない。
この人はどういうことを考えて、どうしてそういう発言になったのか、そこまで読み取りたい。
そしてさらに、自分はそのことについてどう考えているのか、どのように生きていくのか、ということを考えたい。
いまだに、赤べこ状態の森。自分の脳みそはいつ自力で回りだすのか。
そうか、赤べこになっているから、頭からいろんなものが飛んでしまっているのかもしれない。最近は、ねじも飛んでったからなあ。
というわけで、レポートはおしまいっ!
来月は6月26日(土)13:30~ おなじみのホテル精養軒です。
お食事付きは3000円です。
哲学しましょう。活動しましょう。
自分の体験を話そう。自分の物語を語ろう。
あなたはこの社会で、人間として存在していますか?
なんちゃって♪♪♪