今日も私が死なない理由
仕事帰りのある日
最寄りから自宅までの帰り道、公衆電話の脇を通り過ぎたあたりでふと、死にたいなと思った。
何か大きなことがあったわけではない。
ただ、コロナ禍の自粛期間で増した孤独感、社会に対する不信感、仕事の悩み、お金、恋愛、とにかく漠然とした将来への不安に押しつぶされそうになった。
25年間、すごく良い人生だったな。
周りの人にも恵まれて、それなりに辛いこともあったけど、楽しいこともたくさんあったし。
間違いなく美しい人生だったと思う。
なんて振り返ったりもした。
私が私であることをやめてしまえば、今抱えている悩みや、これから先の長い人生で私を待っているだろう、たくさんの苦しみや悲しみに向き合わなくて済む。
とてもシンプルに、それも悪くないと思った。
私が私であることを辞めたって、何も変わらず社会は動き続ける。きっとそんな日に限って、電車もバスも1分たりとも遅れたりしないんだろう。知らんけど。
このデカ世界の中で私が1人消えたところで、当たり前に何も変わらない。そりゃそうだ。
しかし、確実に生まれるものもある。
家族、友人、関係者各位に与えてしまう、寒色の感情である。
私が逃げたいと思っているこれから先の苦しいことを全部ひっくるめて、仮に右手に100とする。そして私が私を辞めた時に与えてしまう感情は、左手に収まらず、100を超えて手から溢れ出るであろう。私の人望を謳っているのではなく、そのくらい、私の悩みはちっぽけなことばかりなのだ。
私が逃げられるものが100で、生まれる悲しみが100を越えるなら、両手の天秤はどちらに傾くのか。つまり、自分は生き続けなければならないと。
ここまで書いた内容を通して映し出される私は、すごく弱っている人間のように見えているかもしれないが、そんなことは一切ない。
むしろ逆だ。
自分の人生をどこか他人事のように思っている。
だからこそ執着なく、諦めの感情を簡単に抱けたのかもしれない。
ある夜、彼にこの話をした。
私を肯定して優しくして欲しかったわけではない。ただ、他人には見せない自分の心の内を唯一話すことができる彼に、尊敬する彼に自分の話を聞いて欲しくなったのだ。
彼は最後まで話を聞いてくれた後、悲しみが100を越えるの、と表現した私の拳を握ってこれは愛だねと言った。
私が死なない理由は生きる意味であって、
関係者各位の悲しみであり、つまりそれは愛だと。
自分を愛してくれる人間のために、今日も明日も生きていけばいいんだと。
死なない理由の温度が変わるのを感じた。
そしてやっぱり、彼の感性は素敵で、発する言葉は温かくて、相変わらずありがたかった。
そして、私が生きる理由である関係者各位へ
勝手にありがたがっているけども、あなた達のおかげでわたしは今日もこの世にいます。
ありがとう。
どうか私もみんなの死なない理由でありますように。
今日を生きるあなたたちが
温かく穏やかな気持ちでいられますように。
先を歩いて道の小石を除くことはできないし、今は遠くにいるあなたの幸せを祈ることしかできないけれど、幸せを願う力はとても大きいと思っている。私を愛してくれる人たちには、そんな温かい祈りと力に包まれていてほしい。
私を大切に思ってくれるあなた達のことを、私も大切に思っています。
そんなことをたまに思い出しながら、これから私はいくつもの孤独な夜を超えていくのだろう。
2020.12.7
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