娘の帰省で知る潮時
離れて暮らす娘が先日しばらく帰省していた。
この日に帰るよという連絡をもらった時は、そりゃあ嬉しくて、よく晴れた日に彼女の部屋の窓を開け放ち風を通したり、布団を干しておいたり。
何が食べたい?と聞いて食材を準備したり。
そうだ、ちゃんと家中…特に水回りを綺麗にしておくか、と念入りに掃除する。
このあたりで、ふと「ん?」と自分のやっていることに、これまでとは違う感覚を覚えたものの、忙しいので気にしないようにして諸々準備を進める。
娘を新幹線駅に迎えに行き、近況を聞きながら車を運転。帰宅してリラックスする娘と共に、彼女が食べたいと言った私手製の餃子で夕食をとり、元気な我が子の顔に安心して。
しかし私は、娘の滞在が3日、4日と続く内に、だんだん居心地の悪さを覚えていた。我が家だというのに。夫婦ふたりの生活に大人がひとり加わるだけで、ルーティン家事のリズムが変わる、仕事も妙に捗らない。リビングのテレビに普段観ない類の動画が映し出されてるだけでも軽いストレスを食らう。
5日目で私の頭に「客と魚は3日で臭う」という西洋のことわざが浮かんだ。
客…私は我が子を知らず知らず客と捉えていたのか。
そうだ、家中を、特に水回りを綺麗にせねばと念入りに掃除している時に覚えた、これまでとは違う感覚はこれだ。家族ならばここまでやりはしない。あの行動は今回の娘の帰省が来客と同じだからだ。
この家で慈しんで育ててきた娘が今、私にとってお客さま…
長い期間取り組んできた、母親という役目の潮時なのだろう。
娘のことは変わらず大切に思い、愛している。それは確か。
しかし彼女は大人になり、私は年を取った。子ども達の巣立った家で、改めて夫婦ふたりで初老の番いとしての暮らしを温めている。
もうあの頃の家族ではない、戻れないのだなと思った瞬間、ふっと楽になった。戻れはしないが、あの頃も今も幸せである。その幸せの手触りは全くの別物だけれど、悪くない。
納得したら、お客さまとしての娘の存在に、不思議とストレスを覚えなくなった。
のんびりしたし帰るわと荷物をまとめた娘を新幹線駅に送ってゆく。
じゃあねと手を振る彼女の背中を見送りながら、次の帰省はこれまで以上の余裕と愛を持って迎えられるだろうと思った。
ゆるやかに家族の形は変わるけれど、これだけは変わらない。
あなたがどこで生きるにせよ、元気でいて。
了