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【光る君へ】ドラマレビュー第30回公開されました

クロワッサンオンライン 連載中、大河ドラマ「光る君へ」ドラマレビュー第30回公開されました!こちらからお読みいただけます↓

クロワッサンオンライン光る君へドラマレビュー30回

あかね(泉里香)……和泉式部が登場し嬉しくて舞い上がってしまいました。小倉百人一首に採られた

あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな
(私はもうすぐ死ぬでしょう。あちらの世に旅立つ前に思い出として、もう一度だけ会いたいのです)

この歌に代表されるように、情熱的な恋の歌の詠み手です。『光る君へ』ドラマ放送後のおまけコーナー『光る君へ紀行』でも紹介されたように、恋多き女として有名……。『和泉式部集』には、当時からそのように認識されていたことがわかるエピソードと歌があります。
藤原道長が彼女の扇に「浮かれ女の扇」と書いてからかったところ、和泉式部は

越えもせむ越さずもあらむ逢坂の関守ならむ人なとがめそ
(逢坂の関……男女の一線を越える人も越えない人もいます。関守でもない方が咎めないでください※私が誰と交際しようが、道長様には関係ないでしょ)

見事な歌でぴしゃりと反撃したのだとか。

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ドラマでは楚々とした姫君たちの中ににギャルっぽい雰囲気を持つ女性として舞い降りましたが、この寛弘元年(1004年)の時点で娘がいました。999年頃に生まれたとされているので、ドラマ内の時間では5、6歳でしょうか。
成長して母・和泉式部と同じく宮仕えをし、小式部内侍と呼ばれました。彼女も小倉百人一首に歌が採られ、その歌は痛快なエピソードと共に『十訓抄』に伝えられています。
歌人として名を馳せた和泉式部と同様、小式部内侍も歌が上手いと評判でした。ただ、内裏では彼女の歌は母・和泉式部が代作しているのではないか?という噂が流れていたのだとか。『光る君へ』30話でも、あかね(和泉式部)が他の人のために歌を代作したというセリフがありましたね。
ある日、宮中の歌合に小式部内侍も歌人としてお召がありました。待ち時間中に、小式部がいる部屋の前を通りかかった藤原定頼が彼女に

「もう丹後へやった遣いは帰ってきましたか。さぞ心細くておいででしょうね」

……と声をかけました。当時、母親の和泉式部は再婚相手の任地である丹後国にいました。丹後国とは現在の京都府北部、日本海側に面した地域です。
定頼は「代作を頼んだカーチャンから手紙は返ってきた?」とからかったわけですね。それを言われた瞬間、小式部は「御簾より半らばかり出でて、わづかに直衣の袖を控へて(御簾から体を乗り出し、定頼の直衣の袖をとらえて)」歌を詠みました。

大江山生野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立
(この都から丹後の地への道……大江山を越えて生野への道が遠いので、私は母のいる丹後国の天の橋立をまだ踏んだこともなければ、手紙も見ておりません。※代作なんて頼むものですか!)

即興で見事な返し。遠い地で暮らす母への思慕も滲ませています。歌を詠みかけられたら歌で返すのがセオリーなのですが、このときの定頼は返歌もできず、うろたえて立ち去ってしまったとか。
相手が若い女性だと洒落にならない失礼なことを冗談として投げかけるおじさん……今も昔もいるものですわ。

和泉式部の「越えもせむ…」と、小式部の「大江山……」。ふたつのエピソードを並べてみると、一歩も引かない姿勢と矜持、まさに当意即妙というべき頭の回転の速さ。母娘!という気がするのです。

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小式部内侍は、不幸にして20代の若さで死んでしまいます。彼女が遺した子ども……自分にとっては孫を目にして、和泉式部が詠んだ歌は

とどめおきて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり
(私たちを置いて亡くなった娘は、誰のことが気がかりだろうか。やはり、遺した我が子のことだろう。私も娘を喪いこんなにも辛いのだもの。我が子以上に大切な存在などないのだ……)

若くして彼岸に旅立った娘を思い、幼い孫を前に涙も枯れ果てた悲しみを、ひしひしと感じさせます。

華やかな恋と数多の悲しい別れを経験した和泉式部は、歌にその時その瞬間の心の有り様を込めました。
『和泉式部日記』『和泉式部集』おすすめです。未読の方は、この機会にぜひ。

(つづく)





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ぬえ
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