私のおばあちゃん
これは、私が小学校4年生の時の話。
明日の音楽の時間には笛のテストがある。
あまり音楽が得意ではない私は、それこそオヤツも食べずに練習していた。
友人の「春江ちゃんって、あんまり笛、上手くないよね」という言葉が悔しくて、どうしても見返してやりたかったから。
それこそ上手でない縦笛をピーだのプーだのと鳴らしていたのだから、家族は大迷惑だっただろう。夕飯が済んで、お風呂に入る前まで練習していた私に、お母さんが「いい加減にしなさい!」と怒ったのを覚えている。
だが私にとって大事なのは笛のテストの方だ。お母さんに舌を出して『アッカンベー』するとリビングから自分の部屋へ駆け戻った。
どうして上手く吹けないのだろう。悔しくて、なかばムキになりながら練習をしていると、部屋のドアがノックされた。
(またお母さんが文句を言いに来たのかな)
とも思ったが、知らん顔して練習を再開した。
すると、静かに開いたドアの隙間から、おばあちゃんが顔を出した。
「春江ちゃん、夜にあんまり笛吹いたりしたら、あかんよ」
いつもなら優しいおばあちゃんの言葉に逆らったりはしないのだが、この時はタイミングも悪かった。
「仕方ないでしょ! 明日、学校でテストあるんだから。邪魔しないで!」
反抗気味に言葉を投げ返した私をじっと見ながら、おばあちゃんはまた静かに口を開いた。
「夜にね。夜に笛を吹くと、幽霊が来るよ。だから、もうやめとき」
「幽霊なんているわけないじゃん。バッカみたい! いいから、出っててよ、おばあちゃん!」
おばあちゃんを廊下へ押し出すと、部屋のドアを思い切りバタン!と閉めた。
時計を見ると、もう九時半を回っている。そろそろお風呂に入って寝ないと、きっと明日は起きれない。
しぶしぶ練習を切り上げ、笛をランドセルに仕舞うとお風呂に入った。
「もう、おばあちゃんのせいで練習できなくなっちゃったじゃない。明日の笛のテスト、上手く出来なかったらおばあちゃんのせいだからね」
今思えば見当違いも甚だしいのだけれど、その時は誰かに責任をなすりつけたい気分だったのだ。
夜中。すっかり熟睡していたはずの私は、かすかな物音で目を覚ました。と言っても、意識が浮かび上がってきただけで目は閉じている。
(何? 何の音?)
寝返りを打とうとしたその瞬間。
私は全身が押さえつけられるように動かなくなっているのに気がついた。
(え、ええぇぇ! 何これ! 何で動かないの!?)
心の中で叫び声をあげ、どうにかして体を動かそうと必死になる。しかし指先はおろか、閉じたまぶたさえも動かす事は出来なかった。
「金縛り」という言葉が頭に浮かぶ。寝る前に聞いた『夜に笛を吹くと幽霊が来る』というおばあちゃんの話を思い出し、全身から嫌な汗が噴き出してきた。
その時、ひやりとした感触が頬に触れた。
(何、なに、ナニ!?)
冷たくて、ほんの少しだけ湿っぽいその「何か」は頬を辿り、まぶたまで来ると止まった。グッと力が込められる。
(ゆ、指?)
グ、グ、グと力を加えられた右のまぶたは、ゆっくりと開いていく。
(いや! 開けたくない! 見たくない!)
自分の体なのに、言うことをきいてくれない。私の意志は無視され、まぶたは上下に無理やり開かれる。右目に部屋の様子が映し出された。
オレンジ色の常夜灯に照らされた、薄ぼんやりとした部屋の中。私の寝ているベッドのすぐ脇に、こちらを覗きこんでいる人影が。
ハッハッと短い呼吸をくり返し、恐怖で波打つ心臓が痛い。
人影が私の上に屈みこんできた。
こひゅっ
息を吸い込んだ喉が変な音を立てる。
そこに立って私を覗きこんでいたのは……
(おばあちゃん!)
能面のような無表情で、私の目をじっと覗きこんでいる。
何をするでもない。何を言うでもない。
ただ、じっと、感情のない顔で、こじ開けた私の目を覗きこんでいる。
その緊張感に耐え切れず、私は意識を手放してしまった。
気がついたのは翌朝。
甲高いアラーム音で目覚めた私は、固く強張っている体を起こしてからボンヤリと室内を見回し……そして思い出した。
昨夜のアレ! 何なの!?
きっと私が言うことを聞かないで夜に笛の練習をしていたから、おばちゃんが嫌がらせに来たんだ!
私はベッドから跳ね起きると、階下のリビングへと駆け込んだ。
「お母さん!」
キッチンで朝食の用意をしていたお母さんが、驚いた顔をしてふり返る。
「おはよう……って、何なの、一体」
「おばあちゃんが! おばあちゃんたら酷いのよ! 昨日、私が言うことを聞かなかったからって、夜中に部屋に入ってきて──」
勢い込んで昨夜の事を説明しょうとすると、お母さんは眉をちょっと寄せてから流しっぱなしの水を止めた。
「ねえ、お母さん、ちゃんと聞いてよ!」
「何よ、夢の話? 忙しいんだから早く顔洗ってらっしゃい」
「だって、おばあちゃんが!」
「おばあちゃんって誰のこと? うちには『おばあちゃん』なんていないわよ」
そう言われて、私はハッとした。
そうだ、うちには『おばあちゃん』なんていない。
お父さんのおばあちゃんは私が生まれる前に死んじゃったし、お母さんのおばあちゃんは隣の県に住んでる。うちには『おばあちゃん』なんていない。死んじゃったおばちゃんだって、写真で見る顔とは全然違う人だった。
じゃあ うちにいたのは 一体 誰?
いつも家にいて、私と会話して、廊下やお風呂や庭にいたのは──誰なの?
私は膝の力が抜けてしまい、そのまま床に座り込んでしまった。
家にいるのが嫌で、朝食も食べないままに玄関から飛び出した。
もちろん、音楽の笛のテストは散々な結果だった。
それ以来、家の中で『おばあちゃん』を見かけることは……なくなった。
了