書き続けてください、という呪い(6 自分の悩み)
書き続けてください、と初めに言ったのは誰だったか。わたしを文芸部に誘ってくれた彼女かもしれないし、その顧問だったかもしれない。あるいは、別の誰かが。
覚えているのは、高校3年生の夏、文芸コンクールでのことだ。
文芸誌の片隅にほんの申し訳程度に寄せた、提出するつもりもなかった「随想」と呼ぶには不恰好すぎる文章。それを、なんとも幸運なことに、選考委員のお一方が、目をかけてくれたらしい。「書き続けてください」。本来であれば選考対象ですらない文章に対してかけられたその言葉を、わたしは今でも忘れられないでいる。
それは、まるで自信のなかった自分にとっては、思いがけない贈与であるとともに、呪いのようだとも思った。
書き続ける。すなわち、これからもずっと、何かを作品として生み出していてくださいね、という期待。そうはいっても、わたしにはそうする理由がなかった。自分のなかみが空っぽだと思っていたからだ。「作品」として表現したいことなどなかった。実際のところがどうかはわからないけれど、その当時は、およそ「クリエイター」に属する人たちは、きっと、自分の中に抱え切れない思いが存在し、それを表現することで人生を生きているのだと信じていた。残念ながら、わたしはそれにはそぐわない。凡庸な人間だから。
あるいは、表現したいことはあったのかもしれないけれど、誰でもいい、不特定多数の誰か、に向けて自己表現をするのが、怖かったのかもしれない。
ただ、私を文芸部に誘ってくれた彼女と好きな小説についての話をしたり、お互いの創作物について率直に議論をするのが楽しくて、幸福で、満ち足りていて、ただただそれだけのために創作活動をしていた。だから、大学生になって以来、書く、書き続ける理由がなくなってしまった。「書き続けてください」という、ほんの一瞬の期待が刻み込まれたままで。
書き続けるためには体力がいる。それは自分の頭の中の混沌から意味のあるものを掬い上げ、適切な形を与えてあげる、そのための筋肉、という技術的な話だけではない。誰のために書くのか、という問題だ。
好きな音楽などのことについてブログなどを書いてみようか、と思いたったこともある。もちろん、長くは続かなかった。その向こうに誰もいない気がしたからだ。ワールド・ワイド・ウェブの向こうにいるはずの不特定多数に、どのような言葉をかけていいのかわからなかった。あるいは、虚空にに向かって返ってこない「やっほー」を投げかけるような、虚無感に耐えられなかった。
つまるところ、わたしは凡庸な人間たる自分を凡庸なもの以下としてしか認めていなかったし、何よりも他者、すなわち自分が所属している社会の網の目のようなものを信頼しきっていなかった。心の奥底で拒んでいたのだ。かくして、わたしは呪いを抱え込んだままで、その成就をこれまで頑なに諦めてきてしまったといえる。
誰かの心に届いてこそ、作品なのだと思いこんでいる。ならばそういう意味では、この文章は、作品にはならない可能性が高い。独善で、自己完結で、自分のためなんじゃないか。そういう疑念は、いつまでも堆積する泥のようにそこにある。じゃあ、どうして、こんな文章を書く気になったのだろう。それはたぶん、時間がたって、もう少し他人に自分を預けてみたいという素直な欲望を肯定できるようになったから。いろいろな失敗を繰り返して、凡庸どころか、だめですらある自分を、是とも非とも思わず受容し続けてくれる場所があるということに、ようやく気付き始めたから。
「書き続けてください」という贈与は、成就しなかった。ただ、今、太平洋に手紙入りの小瓶を流すような想いで、呪いを生きなおそうとし始めたところだ。