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私と音楽(2)

小学校5年か6年あたりで、私の部屋にCDプレイヤー付きのWラジカセが来ました。
そこから私の音楽ライフには、ラジオが不可欠の存在になりました。

ラジオ、その前から聴いてはいたんです。母の部屋にあった小さなラジカセは、小学校高学年の頃から私の部屋において使ってました。
それこそ南野陽子さんが好きだった兄と「ナンノこれしきっ!」を聴いたりね。「ナンノこれしきっ!」は確か、テレビドラマの「ラジオびんびん物語」の劇中に出て来たんだよね。多分、ラジオに興味を持ち出したのは、その辺りから。

私が住んでいた静岡県は地元局と、地元局にネットした番組を聴くことが多かったんだけど、忘れられないのは、TM Networkの「カモンファンクス!」という番組。この番組は地元局にネットしてなくて、TBSラジオを受信できるようにするには、ベランダにラジカセを出したり、アンテナに銀紙(アルミホイルね)を巻くと受信が良くなるとかいう都市伝説みたいなのを信じて巻いてみたりして聴いてました。その時ちょうど、TM Network→TMNになる時でね。今や誰もが使う「リニューアル(RENEWAL)」という単語を生まれて初めて、小室哲哉さんが言っているのを聴いたのがその時でした(エコーついてた)。
若い皆さん、
「最初はグー」は志村けんさんが、
「リニューアル」は小室哲哉さんが、最初に世の中に広めたのだよ。

そうそうラジオの話からさらに逸れた。音楽だってば。
ちょうど前述の「カモンファンクス!」の頃はアニメ「シティーハンター」の人気もあって、兄も私もTM Networkを聴いたりしてました。
でも、Wラジカセが来てから地元のK-MIX(FM静岡)を聴き始め、「Choo Choo TRAIN」をZOOがリリースした時。CMソングでもあったし、CDシングルを自分で初めて買って。そのちょっと後に中西圭三さんの「WOMAN」がヒットして、シングルも買ったけどアルバム「Yell」も買った。買ったあとでわかるのですが、自分の意志で初めて買ったCDは、なんと全て中西圭三さんの作品だったのです。

その辺りで「音楽には作家がいる」という認識を強めました。
家にあった宮沢りえさんの「Dream Rush」も田中美奈子さんのシングルも、そういえば作ってるのは小室哲哉さんだったなーとか。
当時ちょうど地元にCDレンタルショップができて、会員になって、CDを借りダビングして聴きまくる時代に突入するわけですが、その時に渡辺美里さんの「Lovin' You」という二枚組のアルバムは、小室哲哉さん、木根尚登さん、岡村靖幸さんという面々が作っていたことを知ったり、「ribbon」は大江千里さんもいたり。レーベル繋がりってことも知ったり。
編曲とかレコーディングミュージシャンのクレジットを意識したのはもう少し後かなあ。

当時私はすでに漫画オタクの友達が多くいて、小学校6年生の時にはすでに、仲良しグループの一人一人が購入するコミックスの作家担当が決まっていました。いかに多くの漫画を読めるようにするにはどうしたら良いか、考えた末、コミックスは分担制にして回して読んでいたというわけです。そのおかげでかなりたくさんの漫画を読むことができたんですが。
その経験で「好きな作家の系統は、辿っていくと好みの作品に出会える」ということを学んでいたので、音楽も同じように作家でチェックしたり、アーティストと仲が良い人やルーツを辿って行ったり、あとは好きな漫画家さんが好きだとあとがきや欄外で書いているバンドやミュージシャンもチェックしたりしていました。
そうした経緯で好きになったのは陣内太蔵さん、SING LIKE TALKING、ZABADAKなど。テレビで知る音楽とちょっと違う音楽も好きになっていきました。

あと、ラジオで影響が大きかったのは、当時の番組ですね。
「伊集院光のOh!デカナイト」「赤坂泰彦のミリオンナイツ」全盛期。赤坂泰彦さんの番組内で、B'zのミニ番組もあったような気がする。
「オールナイトニッポン」では大槻ケンヂさん、石川よしひろさん、加藤いづみさん、木根尚登さんや福山雅治さんの2部もラジカセで録音して聴いていました。
TFM系の深夜の「のるそる」も聴いて、根本要さん、坂崎幸之助さん、チャゲさんを聴いてた記憶。
音楽でいうと「ポップン王国」というヤマハ提供の番組がありまして、実はこれがいわゆる「ポプコン」終了後の「TEEN'S MUSIC FESTIVAL」のタイアップ番組だったわけです。多分シャ乱QとかACCESSとかを最初に知ったのはこの番組だった気がします。

ラジオの影響か、中学時代は放送委員、高校〜大学は放送部所属。
中学は単純に「昼休みに放送室でお弁当を食べながら、好きな音楽を流せる」というのと、当時放送委員をやろうって言っていた男子が好きな人だったのでという不純な動機(笑)で始めたわけですが、高校は全国大会(NHK杯、通称Nコン)常連校で、超ハードな文化部でした。
発声練習のために腹筋鍛えたり、朝の放送から下校まで当番もあるし、昼の番組は先輩からダメ出しもあるし、校内予選が厳しくて県の地域大会にも出られないような中で私は番組制作を担当してました。裏方人生のスタートです。

大学の時はラジオが好きすぎるあまり、ラジオのオンエアーチェックのバイトもしました。120分テープで延々録り続けた各局の番組を早送りで聴き、かかった曲をマスターのリストからコピペして、毎日のオンエアー状況をリスト化する仕事。レコード会社などが主なクライアントでした。まだ文字放送、データ放送も駆け出しの時代です。

そうそう、現在弊社でラジオ番組を制作・スポンサーしていますが、実は制作ディレクターをお願いしているmoontracksの斉藤りか姫は、なんと!大学時代私が聴いていた「大槻ケンヂとタマゴのキミっ」を担当していたそうで。当時遠く大阪から毎週「二子玉川のワンダーエッグスタジオからお送りしています」と公開録音している様子を聴いていたのです。
人生どうなるかわかりません。

大学時代の就職活動ではラジオ局と音楽出版をメインに受けていました。
当時半蔵門でTOKYO FMは一人一人面接をしてくれた記憶があります。
FM OSAKAはかなりいいところまでは行ったけどダメでした。
K-MIXは親の勧めで受けたのですが当時既に総合職の締め切りが終わってて、受けたのはアナウンス職!高校の放送部でも一番下手だった私が受かるわけがないので、記念受験的に楽しんでました。マイクテストとかやったなあ。当然落ちました。

まさか、全部の就職試験に落ちて、どの新卒採用にも引っかからず
デューダ(中途採用の求人誌)で無理やり広告の営業仕事を見つけて卒業式前日から働き始めてた私が、今音楽やラジオの仕事をしているなんて、本当にわかんないもんです。というか、単に諦めが悪かったからでしょうけど。

そんなわけで、私と音楽に欠かせないラジオのお話でした。

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