幼馴染とは、10年一緒に育っただけの他人
私には大事な大事な幼馴染が3人いる。
全員、小学1〜3年生の間に出会った4人グループです。
このGWも、彼女たちと遊んだ。
年3〜4回、長期休みのたびに集まっている。
出会ってから20年以上経った。
日常を共有しなくなって10年が経った。
そうか……私たちはもう、出会ってからの期間の半分を、一緒に過ごしていないことになるのか。
きっと私たちは出会うタイミングが違えば仲を深めることがない人種どうしだった。
Aは堅実な会社員。コツコツ資格等の勉強もし、堅実な貯金と、慎重なパートナー探し。
Bは、ずっと恋に生きていた女。男に困ったことはなく、結婚と出産の時期を逆算して1番早く結婚し、3歳の息子を育てるママ。
Cは3次元オタク。某アーティストのため、ワールドツアーを追いかける古参のTO。既婚ながらその勢いは衰えない。家庭より趣味のために働く3次元オタク。
私は、趣味を仕事にした2次元オタク。4人の中で唯一地元を出ている。そして東京にいる。仕事もフリーランス、恋愛の方もフリー()1番身軽なやつ。
私たちは全員バラバラ。共通言語は、幼馴染というそのワードと思い出だけ。
10年一緒に育ってきた。もうそれだけで、当時は自分たちのことを同一視していた。
毎日一緒に過ごしてるから、わからないことなんてない。それに、同じ環境で育ったから、考え方もそう遠くない。
何を話しても簡単に共感できていたし、わかると思っていた。
でも、最近、驚くほど言葉を選ぶようになった。
気づいたら10年、私たちは一緒に過ごしていない。
当たり前にそれぞれの人生を歩んでいるわけで、お互いに知らないコミュニティと親しくやってる。人生において注力している分野も違う。冒険か、安定か。それも違う。
気づいたら、「わかる〜〜〜」は一つもなくなっていた。
そして、お互い、中学卒業後から大きな取捨選択を繰り返してきた。
中学や高校までを、ジェネラリスト養成所と表現するなら、大学以降はスペシャリスト養成所だ。
そこでの時間を勉学に励むも、恋愛に励むも、趣味に使うも自由。
そうして人間性に尖ったステータスが出てくるわけですけど。
私たちは見事にバラバラであった。
ジェネラリストからスペシャリストになる過程で、私たちは他人になっていった。
今この他人を繋ぐのが「幼馴染」というキーワードだけ。それだけで、無条件に集まれる。
彼女たちに情はある、とてもある!
でも、当時みたいな、大好き!ずっと一緒にいたい!なんて気持ちはなくて……熱がない。
彼女たちといるとこの結束力に自分の中に熱を帯びるあの感覚が、「いつメン最高だよね♡」みたいなアレだったんですけど、ほんっとにない。
やっぱ今は漫画を描く友達と仕事の進捗や情報交換、技術研鑽に励んでる時間のほうが圧倒的に楽しいし。
ずっと、一緒にはいられない寂しさを、永遠なんてない寂しさを噛み締めてしまう。
プリクラの「一生仲良し」とか、あの頃簡単に書いてたなーとか。
でも大人になるってそういうことだよな。
あとさ、大人の「仲良し」の定義って、子供とは違うんだから。
離れて暮らしてるのに年3〜4回会えてたらそれは充分中良くて。
共通言語がなくなっても会いたいと思える、思ってもらえるのって、それだけで特別で。
何一つ共感できないお互いの近況に相槌打って、えぇ、そんな世界があるのか……と、ほぼレズビアンの私はおそらく一生関わることのない保育園という世界の話を聞いて。
でも、無条件に他の世界を覗けるのも幼馴染の特権だなぁと思っている。
どうしても類友ばかり増えて、視野が狭くなったり考えが偏って、対岸の立場の誰かを傷つける存在になってしまうかもしれないから。
幼馴染と会うたび、自分が属することのない世界の話を聞くから、いろんな立場の人に想像力が働くようになって少しだけ、優しくなれる気がする。自己満足だけど。
幼馴染と会うたび、ぴったり接地してたはずの育ちの環境から、どんどん人生の溝を感じる寂しさを感じながらも、彼女たちが私の視野を広げてくれるんだと思いながら、これからも、幼馴染たちを大切にしていきたいと思います。
次の10年、もっとライフステージが変わる。
お互いもっと他人になる。それでも私たちはきっと集まってると思います。
ちょっとだけ寂しいなーを嘆くだけの記事でした。
でも幼馴染いるだけ素敵だよって言われるとで、みんなで会えることだけでも、大切に大切にしていきたいと思います。
読んでくださってありがとうございました!