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偶然性と運命

 病気になった人は,必ず自問するだろう.医療者なら一度は患者から訴えられたことがあるだろう.「どうして自分がこの病気になったのか?どうして自分だけ?」

こうした患者からの訴えに,わたしたちはどう答えたらいいのだろう?

 九鬼周造を研究する哲学者であり,乳癌を患う宮野真生子と,医療人類学者磯野真穂の往復書簡『急に具合が悪くなる』で磯野は,運命を,「生きる過程で降りかかるよくわからない現象を引き受け,連結器と化すことに抵抗をしながら,その中で出会う人と誠実に向き合い,共に踏み跡を刻んで生きることを覚悟する勇気」と定義している.ここで言う連結器とは,患者と非患者などの間の「適切な接し方」を実現するためのパターン化した関係・役割のことをいい,例えば癌患者には余計な詮索をせず,普段通り接しつつ安易な励ましを控える,といった態度である.磯野は連結器,表面的に宮野と接することを拒否し,お互いに傷つく可能性をおそれずに感情を露わに宮野さんにぶつかっていく.

 精神科医であり,精神病理学と現象学を扱う木村敏は,フロイトを引用し,生きもの以前の,存在として限定されていない生成の中から生命物質が生み出され,生成に存在の性格が刻印されることで個体が発生するという.生命物質の発生と同時に,生命一般は個体の生存へ限定される.そして生命ある有機体に内在する,生命以前の元の状態に戻ろうとする衝迫を「死の欲動」とし,あらゆる生命の目標は死,つまり生命以前の状態にもどることであるとする.また,ニーチェの「力への意志」は「生命」と同義だとし,必然的な生成を,偶然的な存在へと個別化することだとする.必然的な普遍的生命の生成から,個別の存在が偶発的に発生する,という現象を,個別の存在の側から見てみると,偶然の存在でしかない自らが,必然的な普遍的生命の生成と確かにつながっており,ニーチェが「運命愛」と呼んだものは,逆方向から見た力への意志ではないかと提起している.運命愛とは,自己愛とはまったく異なり,偶然的存在が自らの根底にあって自らを生み出しつづけている必然的生成へと向ける「愛」であり,個人が自らの生成を支配する生命一般に向ける受容なのである」.

個の存在は自らの偶然性を引き受け,それを受容する過程で自分の固有性を創造し,自らの存在を必然とする,しかし自らの存在の固有性の根拠は普遍的な生命の,その生命以前の状態にある.いずれ個別的生命は,生命が生まれる以前の状態に戻っていく.それが死であり,生命のゴールであるが,そこに行く過程として,それぞれの固有性を創造し,それこそがスピノザのいうコナトゥスなのではないか.


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