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依存症と主体/自己についての自分的メモ(読書記録)
2024年日本プライマリ・ケア連合学会学術大会(JPCA2024)のシンポジウム、「助けてが言えない」をオンデマンドで視聴した。依存症の研究で著名な松本俊彦氏と、当事者研究の熊谷晋一郎氏が出演しており、松本俊彦編集の『助けてが言えないーSOSを出さない人に支援者は何ができるか』に触発されて企画されたとのことだった。
松本氏の発表は、若者の市販薬のオーバードーズ(OD)、リストカットなどが主題である。若者は辛い出来事や悩みからくる不快な感情を和らげるためにリストカットやODを行う。その根本には、「ゆっくり死にたい」、「人間やめたい」という気持ちが存在する。子どもたちは、周囲への絶望や自分への無価値感から、SOSを発することができない。こうした当事者に対して、SOSを出すように促すのは難しい。しかし、友達にはポロッと話すことがあるという。その時に、周囲の子どもが助けることができるような教育が必要であり、薬物を使う人から離れよう、排除しようではなく、なにか困っていることがあってODをやっているという視点から、声をかけよう、という教育が必要、と述べていた。
『暇と退屈の倫理学』増補改訂版の付録「傷と運命」
ここで思い出したのは、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』増補改訂版の付録「傷と運命」である。本編では、暇と退屈の形式についてハイデガーなどを根拠に思考を展開しているが、付録は本編の4年後に書かれており、國分功一郎氏の興味は、暇と退屈の形式から、人はなぜ退屈するのか?という「退屈という不快な現象の存在そのもの」を問う、<暇と退屈の存在論>へと移っていることがわかる。人は習慣を形成し、周囲の環境を一定のシグナル体系に変換して生きている。新しい外的刺激から身を守り、周囲の刺激を習慣的なシグナルに変換することで安全なものに変え、自分の世界に引きこもることが生の条件と本編には述べられている。人は絶えず慣れない刺激に晒されては生きていけないが、しかし刺激がなければ人は退屈し、不快な状態に陥る。
そこで「サリエンシー saliency」という新たな概念がまず導入される。サリエンシーとは、「突出物」、「目立つこと」を意味する語であり、「精神医学等で用いられる専門用語としては、精神生活にとっての新しく強い刺激、すなわち、興奮状態をもたらす、未だ慣れていない刺激」のことを指す。世界はサリエンシーだらけであり、生きるとはサリエンシーに慣れ続ける過程とも言える。その反復の中で徐々に構造が把握できるようになり、刺激が予測できるようになっていく。國分氏は熊谷晋一郎氏の議論を引用し、サリエンシーという外部の<他>に対する慣れの過程が<自>、つまり自己やその身体を生み出すと述べている。
そのような痛みに耐える過程である人生において、予測を超える、慣れることのできないサリエンシーがトラウマ(ギリシア語で傷を意味する)である。慣れることのできないサリエンシーは、フラッシュバックやPTSDという痛みの記憶を誘発する。再び熊谷氏の論が参照され、これは慢性疼痛にも共通する構造であることが指摘されている。熊谷氏によると、慢性疼痛を感じる状態にある患者は、外部から与えられる急性の痛みの刺激を「快」と捉え、そのとき一時的に、普段悩まされている痛みが軽減していることを発見する。
トラウマを持つ者は、外からの刺激のない平穏な状態にいると、内側からのサリエンシー=痛む記憶が蘇えり、不快で苦しい状態に陥る。これを避けるため、彼らは退屈で平和な状態にいることを避け、敢えて外からのサリエンシーを求めてしまう。それがリストカットやODにつながると言えるだろう。
人間は刺激を避けたいにも関わらず、刺激がないと不快な状態に陥る、というこの矛盾は、人間本性を論じても解き明かすことはできない。その人固有の歴史を持つ人間について考えなければならない。この考え方は、限りなく家庭医療の患者中心の医療や解釈学的医療に近付いていく。そしてこれは、哲学が扱う、そもそも人にはじめから備わる「人間本性 human nature」の問題ではなく、人間の生きる過程で遭遇する「人間の運命 human fate」の問題である。
熊谷氏は、当事者研究という、何らかの疾患や症状の当事者である患者が、自らの症状について行う研究が専門である。当事者研究は自分一人の自己反省ではなく、他者に向かって発表する活動である。この活動によって、彼らの症状は軽減し、治癒効果がもたらされるという。この点について、熊谷氏は、他者を媒介することではじめて発見できる反復構造があるのではないかという仮説を立てている。この反復によって、一人では癒せない傷、トラウマに慣れる過程を経ることができるのではないだろうか。
孤立lonelinessと孤独solitude
冒頭のシンポジウムでは、松本俊彦氏の発表のあとに、熊谷晋一郎氏の発表があった。その中でアレントの孤立と孤独の理論を引用している。孤独solitudeは、私自身のもとに私の自我と一緒にいることであり、私と私自身との対話という二者関係である。厳密に言えば、思考は孤独のうちになされる私自身との対話と言える。それに対して、孤立 lonelinessは、他のすべてのものから見捨てられている状態であり、一者の関係である。そのとき人は寂しさを感じる。孤独のうちにあるとき、人は寂しさを感じることはない。しかしわたしが孤独の中での曖昧な存在から、自分のアイデンティティを確立し、他のものと決して混同されることのない不変の一者となるためには、他者を必要とする。友情が、彼らを思考の対話の中の曖昧な存在から、「交換不可能な人格の単一の声で語ることができる」一者にする。
これが先ほどの、他者を媒介することではじめて発見できる反復構造の説明となる。「友情」によって、依存症の当事者は孤独という自分自身との二者関係に向き合い、トラウマを克服することができるのではないか。ここでいう「友情」とは何か、はまだよくわからない。
『中動態の世界 意志と責任の考古学』
『暇と退屈の倫理学』は2011年が初版、「傷と運命」が掲載されている増補改訂版は2015年に出版されている。熊谷氏に大きな影響を受けた國分氏は2017年に『中動態の世界 意志と責任の考古学』を出版し、その冒頭には依存症患者との対話が記されている。
能動態と受動態のどちらでもない中動態が主題であるが、ここではアレントなどを参照し、近代的主体の「意志」についても詳しく分析されている。わたしたちの行為について、たとえば「歩く」ことは、完全な能動ではない。「歩こう」という意志が最初にあるわけではなく、かといって「歩かされる」という受動でもない。依存症についてこの「意志」の曖昧さはより明確となる。依存症となるには、何らかの原因があるはずだが、法的に罪に問い、責任を負わせるためには、自らの意志によって手を出した、選択したという想定が必要である。個人の意志は周囲や今までの人生などさまざまなものからの影響を受けているはずだが、「責任」を問うためには、そういった外部からの影響を無視した純粋な「意志」が必要なのである。意志は能動態であり、個人がここに至るまで影響を受けたさまざまなものからの、個人のそれまでの歴史からの切断、を意味し、いわばはじまりを「創造する」行為と言える。
それに対して、スピノザは明確に「自由意志」を否定した。自分の意志を決定し、それを志向するように強制する原因がある。しかし、何らかの行為は、それを行った人の意志が前提としてあるはずだとわたしたちは感じてしまう。わたしたちの精神は、ものごとの結果のみを受け取るようにできており、さまざまな因子の結果としての意志を、原因そのものであると感じてしまうのだ。たとえ結果としての意志を理屈では知っていたとしても。スピノザは、自由意志は否定したが、効果としての意志は認めている。
2020年出版の熊谷氏と國分氏との対話集である『<責任>の生成』では、責任についてより詳しく書かれている。熊谷氏はアルコール依存症の自助グループであるAA(Alcoholic anonymous)によって依存症からの回復の過程とされている、AA12のステップを引用する。依存症患者は、過去からの切断としての意志の力ではなく、過去を認め、中動態的な自分を生きることができれば、応答としての責任を引き受けることができると述べられている。
シンポジウムを視聴して、今まで読んできた國分功一郎氏と熊谷晋一郎氏の一連の本を自分なりに整理してみた。
これらの議論はプライマリ・ケアの現場でも非常に示唆的な内容であり、哲学と実践を結びつける大きな試みと言える。
そして中動態的な自己は、西田幾多郎の場所的自己や、木村敏のゾーエーの表現形としてのビオス、運命論につながっていくと思うのだが、それはまた改めて。