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僕がエンジニアを選んだ幸運【追記しました】

僕はなぜエンジニアになったのだろう?

多分、僕がこの道を選んだ時には「エンジニア」という言葉は存在しなかったかもしれない。もしくは、僕が知らなかっただけなのかもしれない。僕がこの道を選んだのは、楽しそうだったから。大学時代にパソコン通信から始まり、モデム接続の初期のインターネットを経験した僕が、大学卒業時に選んだ職業。それは、「パソコンを使う仕事」だった。テレビで加藤茶が出ていたドラマで、子供たちがボツリヌス菌に感染して死にかけているのをパソコン通信を使って助けるという内容だったが、これを観てパソコン通信は時間と場所を超える素敵な技術だと思った。(改めて調べてみたら、後藤久美子や荻野目慶子が出ていたんですね。きっと若い子は知らないけど、有名な女優さんです。)

パソコン通信からインターネットへ

僕は凄く良いタイミングで大学生だったのだと思う。それは、パソコン通信からインターネットへ正に切り替わる過程を自由な時間がたっぷりあった大学生の時に経験できたことだ。最初は、パソコン通信で色々な掲示板へ書き込みをし、レスをもらい、そして自分もレスを付けるようになると一気に世界は広がった。世界中の見たことも会ったこともない人と繋がり、意見を交換できる。当時は、今のように常時接続型のネット回線ではなく、電話回線を使っての接続だったため、まずは、回線を接続して掲示板の最新情報をダウンロードして回線切断。次にダウンロードした掲示板の情報を読んで、コメントを書き終えると、再度回線接続してアップロード。今では信じられない通信環境だったが、電話料金が従量課金のため、接続時間によって料金が決定する。学生だった僕は、このセコイ方法でパソコン通信を楽しんでいた。暫くすると、インターネットという存在を知った。大学のパソコン室で自由に使えるパソコンを立ち上げると、Netscape Navigatorというブラウザを使ってHPを閲覧する。またemailにより掲示板などを使わずに直接メッセージをやりとりすることもあっという間に普通になっていった。

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大学4年生の頃、僕は初めてのMacを買った。LC-475。浮動小数点計算をするコプロセッサを有効にしたので、正確には日本では未発売のQuadra475と同じスペックに改造していた。これをモデム経由でインターネットに繋ぐことで、僕の世界はパソコン通信の世界から一気に広がった。わずか数年でパソコン通信を知り、そしてインターネットの世界へ。この大変革をリアルタイムで感じられた僕は本当に幸せだったと思う。

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僕の充実したエンジニア人生

僕のエンジニア(正確にはSystems Engineer / SE)人生において一番充実していた時代。それは、2社目のSystem Integrator / SI会社だった。商社系のSIではあったが、独立系のため取扱製品は面白くて売れるものならなんでもという、割とイケイケの会社だった。社長も定期的にサンノゼ辺りに出張し、新しい商品を見つけて来ては、社内で検証していけそうなら国内の代理店もやって販売、そしてお客様先へ実装し、その後のメンテナンスもやっていた。(この辺は鉛筆からミサイルまでの商社系の色が出ていたと思う)今はWindowsやLinux全盛だが、当時はSun MicrosystemsのSolarisというOSが流行っていて、これを自社ハードウェアに搭載したSun Enterprise 10000がバカみたいに売れていた時代だ。因みにフルフルで組むとお値段10億円/1台でしかも自律ブートができないため、ブート用のワークステーションも必要と言う、今ではありえない代物でした。

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今は、SunはOracle社に買収されてしまって、ソフトウェアテクノロジーだけが残っているようだが、この頃、一世風靡したSunとSolarisは、多くの携帯キャリアのサーバシステムでも使われていた。

エンジニアでも異色な僕

SEと言っても実はものすごく幅の広い職種で、Programmer / PGとSEの垣根も徐々になくなっている今では、本当に幅が広く奥が深い職種になったと思う。更に、インターネットの世界は、大きくネットワーク、サーバ、ソフトウェアの3要素で構成されている(細分化したらもっといっぱいあるが)のでそれぞれのSEでも所有しているスキルセットは全く異なる場合もある。一部「神SE」と呼ばれる人は、あらゆるレイヤの技術に精通している人もいた。僕が得意なのは、この物理/論理レイヤに横串的に必要となるセキュリティの領域だった。なぜか僕は、コンピュータウィルスが流行る前から、コンピュータセキュリティに興味があった。ネットワークにパソコンが繋がり、どんどん便利になっていく中で、なんとなく危機感を感じていたからなのか、それともハッカー的な感覚で、データの改竄が単に面白そうだったからか今では思い出せないが、やはり何かを守るという仕事に誇りを持っていたのかもしれない。

メリッサ

Outlookの脆弱性をついたこのウィルスは世界を震撼させた。FBIによると全世界で80億円以上の被害を出したこのウィルスによって、インターネット化が進んでいた企業にセキュリティの重要性を喚起させた。徐々にメールシステムが業務の中核を成していく中、メールサーバが過負荷でダウンしてしまうというのはなかなかにインパクトが強く、当時の情報システム部の担当者は感染者が社内に一人でもいれば大慌てだったと思う。

CodeRed

メリッサがメールサーバへダメージを与えるウィルスだとすると、CodeRedは当時全盛だったMicrosoftのIIS(Webサーバ)へ感染するウィルスで、サーバのアクセスログに特徴的な文字列が並ぶことから、担当者はアクセスログのチェックを慌てしていました。

サイバーセキュリティ

僕は当初これらのウィルス感染を防止する製品の担当エンジニアでありましたが、途中からはファイアウォールの専門家になりました。当時流行っていたCheckpoint社のFirewall-1という製品は日本を席巻し、その製品の売り上げの国内シェア6割を僕のいた会社が占めていました。この頃は本当に今で言うブラックな労働環境でしたが、僕はこのてんてこ舞いで睡眠時間が削られて休みもろくに取れない環境が好きでした。当時月の平均残業時間は180時間(残業代は無し)を超え、僕の時給は600円台だったころ、僕は多分人生で一番伸びたのだろうと思います。しばらく忙しい時代が続きますが、土台ができ始めるとフィールドエンジニアの人も製品のインストールや設定ができるようになり、僕の業務もファイアウォールのエンジニアから別のセキュリティ製品の担当へ移っていきました。

電子証明書

今では当たり前になっているSSLの技術の元となる電子証明書の技術は当時急速に広まり、今はPublicCAが当たり前ですが、当時はPrivateCAが盛んで、あくまで企業内CAで企業内デジタルデータの認証や暗号化に使われていましたが、HPの暗号化やメールのデジタル署名通信プロトコルのSSL化のニーズの高まりに伴い、PrivateCAのPublic化の流れが生まれました。ここで証明書自体は元々iPlanetを取り扱っていたので、PrivateCA自体は構築していたが、Public化するためにValidationが必要になり、当時日本未上陸のValiCertという証明書失効管理システムを勉強するためにUSへ出張したのが初めての海外出張だったと思う。ValiCertはUSではPublicサービスを提供していて、データセンターを案内してもらうと当時最先端の物理セキュリティが施されたセンターを見た僕はきっと目をキラキラさせていたと思います。

外資系への転職

日本SIで取り扱う製品の80%以上は外国製品だった当時、お客様で何かトラブルがあってもメーカにお願いして修正してもらうしかなかったのですが、トラブルだけでなく、製品の新機能なども国ごとにまとめられたリクエストを最終的にメーカーがセレクションにかけて新しく実装する機能を決定します。SIにいる限り、自分の意見が強く反映されることはなく、それならばメーカーに転職しようと、人生における大きな決断をしました。

念願の外資系メーカー

外資に転職すると積極的に開発チームと連絡を取り合い、色々なアイデアをぶつけました。単純なアイデアだけでなく、その機能を実装するとどのようなビジネスインパクトがあり、そしてどう売り上げに貢献するか。ここまでをセットにしないと取り合ってもらえず、今から思うと距離を縮めるだけで自分のアイデアが実装されると単純に考えていた僕は浅はかでした。しかし、現場に裏付けられた論理的な開発リクエストは割とあっさりと受け入れてもらうことができ、僕の外資系に転職した「自分のアイデアを形に」と言う部分を実現することができました。最終的には、開発チーム内のエンジニアに社内転職することで、製品を作る側に最終的に行くこともできました。

国防とサイバーセキュリティ

このように、ITの大変革の時代をちょうど良いタイミングで生きた僕は、色々な経験をさせてもらえました。日本にもサイバーセキュリティを担当している国の期間がありますが、その一つNISCへ呼んでもらい、勉強会をしたり、防衛省で勉強会をした時にたまたまNISCでお会いした方に何年か越しで再びお会いしたり、防衛省の入札案件でPrimarySIとしてやっていたメーカー系のSEの方が、10年経っても同じ部署で頑張っていたりと、転職を繰り返して会社が変わっても同じ人に会えるのも面白い現場だなと実感しました。

スモールワールド

サイバーセキュリティの世界はスモールワールド。前述したように、特定の領域で働いている方は、何年経っても同じ現場で頑張っているので、そのフィールドに行けばいつでも会うことができる。最近下火になったInteropやRSAカンファレンス等に参加するとやはり懐かしい顔ぶれにいつでも会うことができる。また、外資系メーカーにおいても、買収によって製品を増やす手法が一般的なため、買収を多く行うメーカーで勤務していると、ある時自分が担当していた商品が実は別の会社で出会ったエンジニアが作り上げた商品だったりもする。出張でUSに行って一緒に飲んだりすると、昔話をするのだが予想外のつながりがあることで本当にスモールワールドを感じることができる。

最高のエンジニア人生だった

今僕は一線を退いてセミリタイアを楽しんでいるが、この環境を得られたのは、エンジニアという仕事を選んでいたからだと思う。変革と新しいテクノロジーが生まれる時代のど真ん中を生きたことで、今よりもチャンスに多く恵まれていたかもしれませんが、今思い返しても、辛い時もありましたがとても楽しいエンジニア人生を送ることができました。唯一ITエンジニアの人生で足りなかったこと、それは、物理的に物を作ること。ソフトウェアで処理されるITの世界では、家やダムやビルのように物理的に完成したものを見ることがなく、こうした物理構造物への憧れがずっと心に残っていました。これからの第二の人生はもう少し物理的なエンジニアを目指そうと思っています。正確にはEngineerではないのですが、Landscape Architect(造園家)になるのが僕の次の夢です。

追記:
造園家になる夢はまだかなっていませんが、2023年の1月から、友人の紹介で知り合った社長さんの会社で働いています。まさか沖縄でまたサイバーセキュリティの世界に戻ることになるとは思っていませんでしたが、FIREを卒業(僕の中では、Graduating from FIRE、G-FIREと呼んでいます)して、見知った世界に戻ると懐かしさと、当時消えてしまっていた仕事へのモチベーションが復活してくるのを感じています。

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