【 病いと言えども… 】
#脳血管 #脳オペ#コイル#脳幹#IgA腎症
岡本太郎の、沖縄文化論 から。
沖縄の言葉で、美ら瘡 ちゅらかさは、天然痘。
どうして瘡が美しいのだろう。
折口信夫はこれについて、
「病いといえども(他界からくる神だから)
一おうは讃め迎え、快く送り出す習しになっていたのである。…海の彼岸より遠来するものは、必ず賛美なるものとして受け容れるのが、大なり小なり、われわれに持ち伝えた信じ方であった。」
と報告している。
(中略)
恐ろしいからこそ大事にする。人間が自然の気まぐれに対して無力であった時代、災禍をもたらす力は神聖視された。“凶なる神聖”である。それは“幸いなる神聖”と表裏である。幸と不幸とどこかで断絶し、連続しているか、それが誰にわかるというのだろう。近代市民のように功利的に、吉と凶、善と悪、まるで白と黒のように、きっちり色分けして判断し処理することはできない。幸いはそのまま災いに転じ、災いは不断に幸いに隣りあわせしている。それはつねに転換し得る。
と、岡本太郎の見解がある…。
現在の沖縄の人のどれだけの人が、美ら瘡というような思想・概念を持ち合わせているのか知りませんが、病いに対しての前提で、「美」をつけようと発想があるのとないのでは、経過も変化しそうだなぁ。
わたしは、ずっとベースにある持病を、その状態である身体のことを知った瞬間から、「美」とは、真逆のように思っていました。
というか、忌み嫌うものとしていた。
年月を経て、色々な人と出会い、さまざまな学びをして、ようやく、太郎が言うことも、わかる…。
色々な学びから、病気は、自分の人生における気付きであると表現されているのを知って、わたしも、そのような面もあるかもと受け入れるのには、年月を必要とした。
この沖縄人の『美ら瘡』の発想というのは、すんなり、なるほどって、自然に入って来た。
そして、太郎の“凶なる神聖”と“幸いなる神聖”という表現が、わたしに、しっくりくる。
それは、太郎が言うように、自然の脅威と恵みを痛いほど、実感しているDNAが、そうさせるのかもしれない。
『快く送り出す習し』とのこと。
わたしも、今回のオペ入院の出来事である脳動脈瘤も、長年、共に生きて来た持病を、快く送り出す精神性を持ち出したいな。
素直に、そう思った。
それが、できるかどうか…。
できたかどうかは、オペ後か、退院する頃に、わかるかなぁ〜。