鏡
この頃、人の顔というものが、よくわからなくなった。認識が難しいのだ。
あれ、この人はこんな顔だったかなと思うことが増えた。
以前とは何か異なるような顔。
顔つきや目つきが変わった。
ということでもない。
11月のある金曜日、学生時代の旧友に久しぶりに会った。
その日は襟巻きがなくても過ごせるくらい麗かな日だった。
酒を飲みながら待っていた私は、つい待ち切れず瓶ビールを二本も空けていい心持ちになっていた。それからふと現れたは友人の顔を見て、私はゾッとした。
誰だこいつは。
こんな顔だったかな。
あの頃の面影はなく、まるで別人のようである。
なんだかトカゲのような顔をしている。
目は前よりも鋭くなった気がするし、身体も一回り大きくなった気がする。肌は濁り、腹は膨れている。
あまりのことに酔いも覚めてしまい、寒気すら感じた私は有りもしない用事を偽って、その日は早々と帰って来てしまった。
無論、このことは彼には黙っておいた。
彼からすれば酔っ払いの戯言に相違ない。
翌朝、鏡に映る自分を見て思った。
あれ、こんな顔だったかなと。
目は落ち窪んで、皮膚はかさかさしている。
鼻の下には髭がたむろしている。
髪は短く切り揃えられ、どこどころ白い毛が見える。
誰だ、お前は。
それからというもの、私は街を歩く度に人々の顔を眺めるようになった。
この人は元からこういう顔なんだろうか。
あなたは本当にあなたなのですか。
そうこう考えているうちに1日が終わってしまう。
仕事なんてまるで手につかない。
自宅へと帰ってくると風呂場の鏡が割れていることがあった。
不思議なこともあるものだと思った反面、不気味さを感じずにはいられなかったので、その鏡は塩を振って処分した。
それからというものうちには鏡がない。
無くて困らないかというと、大して困らない。
見えない分、身嗜みに妥協は無い。
鏡を捨ててから一ヶ月も過ぎようかという頃、仕事終わり、喫茶店でコーヒーを飲んでいた時のことである。
通りを歩くいつかのトカゲの友人を見かけた。相変わらずのトカゲっぷりである。
トカゲよろしく歩き方も中々堂に入っている。
以前よりもぐっとトカゲらしさが増したようにも見えた。
ふと信号待ちの車のミラーに夕日が反射し、私は思わず目を閉じた。
目を開くと、トカゲの友人の姿は見えなくなり、ガラス越しに映る一人の男が目についた。
それはおそらく私なのだが、私でないようにも見える。思わず瞬きをしてみる。ガラスに映る男も瞬きをしている。やれやれ、困ったことになった。
というところで目が覚めた。
起き抜けに水飲みつつ、例のトカゲの友人を思い返す。中々どうして面白い。
今日はその彼がうちに遊びに来ることになっている。来たら夢の話の一つでもしてやろうではないか。いい酒の肴になるだろう。
簡単に朝食をすませ、珈琲を飲んでいるとチャイムが鳴った。
お出ましかな、先生。
ドアを開けてわたしは腰を抜かしてしまった。
夢だったはずの、トカゲ頭が目の前に立っていたのだ。
ああ、あれは夢ではなかったのだ。
トカゲ頭が私に何か話しかけたようにも思えたが、耳に入ってくるわけもなく、わたしは恐る恐る、風呂場に行き、鏡を覗いてみた。
これは私が失踪する二日前の出来事である。
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