漂流都市
揺れている。
康平はゆっくりとまぶたを開いた。
揺れは徐々に激しさを増す。
康平はベットから飛び起きた。
棚やテレビが床にぶつかる。
康平はベットの下に入り、身を縮めた。
揺れと同時に、浮遊感も感じ始めたころ、少しずつ振動は収まり、やがて普段通りの静かな23時半になった。康平はベットを這い出ると、散乱した家具や漫画が視界を覆った。
玄関に向かい、使い古したナイキの靴に足をつっこみ、扉を開く。住民たちのざわついた話し声が聞こえる。
そのまま歩道へ出ると、動揺した街の人々が右へ左へ歩き回っていた。康平は彼らの真ん中で棒立ちになりながら、歩道の先を見つめた。
その先に広がっていたはずの、ビルや、東京タワー、その奥にひしめいていた山々が……ない。
歩道の先にあるのは、真っ暗闇と、散らばる星屑たち。身体を、その先へ進める。やはり、ない。歩道が、ないのだ。分断されている。
そっと、ちぎれた歩道の先を見下ろした。そこには、立ち並ぶマンション。豆粒ほどに小さくなった、車や歩行者。啞然とする康平の背後から、主婦の呟きが聞こえた。
「浮いてる」
康平は振り返り、主婦を見やった。主婦は住民たちの真ん中で、目を見開き、夜空を見つめていた。
「この街だけが、浮いてる」
康平は顔を上げた。いつもと比べものにならないくらい、星が瞬いている。いつにも増して輝くそれは──どんどん光を増して──私たちに近づいているようだった。
いや違う。夜空が近づいているんじゃない。
私たちが、夜空へ近づいているのだ。
「康平」
女性の声がした。
振り返ると、カナの姿。寝巻のままで、長い髪はぼさぼさのままだ。
「これって……」
その時、住民たちがひしめく奥で、青いセダンが猛スピードでやってきて停車した。なかから、この街のボス、すなわち市長の荒島久美子が出てきて、住民たちをかきわけながら、分断した歩道へ向かった。離れていく街並みを見下ろし、荒島は息を吞んだ。
「気づいてもらわないと」荒島は叫んだ。「下の人たちに、気づいてもらうのよ!」
荒島は、電柱の下に転がる小石を拾って、離れゆく街に投げつけた。
「みんなもやって!」荒島の叫びに背中を押され、住民たちはあらゆるモノを投げつけた。
石やテレビ、使い古した食器──康平とカナは呆然とその光景を見つめていた。「お前らもやれよ!」男性の野太い声に驚き、康平とカナは彼らのなかに飛び込んだ。
小さな石ころを拾っては、見慣れたビル街に放り捨てる。小石はネオンのなかに消えていく。「下の街の人にぶつかったらどうしよう」とか「こんなことしてもあんまり意味ないんじゃ」という気持ちはあったものの、口に出すことが憚られる空気だった。おそらく他の住民も同じ気持ちだったに違いない。荒島の威圧的な声質と存在に、周囲は屈さざるを得なかった。
拾う石粒がなくなり、康平が手持ち無沙汰状態で佇んでいると、「何も投げるもんねーんだったら家からとってこい!」という怒号にまたもや呑まれ、自宅へ走った。
玄関に入り、散乱した家具のなかから、先日買ったばかりのテレビを両手で掴み、持ち上げる。
「ねえ」
か細い声に康平は顔を上げた。玄関先にカナが立っている。
「カナも手伝って!」康平は叫んだ。カナは康平に近づき、彼の腕を握った。カナは目を潤ませ、康平を見上げて静かに呟いた。
「これ、わたしのせいなの」
康平は体を止めた。
「どういう……」
「この前、ユミ先輩の一周忌が、あったでしょ、あのときなの」
「……」
「わたし、先輩に言ったの。先輩のところにいきたいって」
康平は眉をひそめた。
カナは康平の腕を掴む手にさらに力を入れてから、康平を見やった。
「この街は、ユミ先輩のところへ向かってる」
その時、誰かのうめき声がした。カナと康平は顔を見合わせてから、家の外へ出た。住民たちが、首に手をあて、目を白くさせて呻いている。
康平とカナも、彼らと同じように、徐々に息苦しさを感じ始めた。
空に近づくにつれ、酸素濃度が薄れ始めているのだ。
アスファルトに体を打ち付け固まる住民たちの渦中で、康平自身も苦しみの声を上げていた。宙を睨むと、雲はなく、そこには青白い光粒と──飛行機。飛行機だ。轟音を響かせ夜風を泳ぐ機体に、助けを求めようとしたが、声が出ない。康平の視界は闇に飲まれ始め、やがて意識を──失った。
……音がする。単調に続く電子音。
まぶたを、そっと開く。
見慣れた天井だ。
音のするほうに顔を傾けると、スマホが小刻みに震えながら、康平の額に近づいてきた。右手でそれを掴んでから、人差し指を画面にひっつけて、左へ指を動かす。
音は、ぴた、と止まり、陽射しがそっと部屋を照らす音だけが残った。
康平は、壁に掛けられたカレンダーに視線を移した。
12月4日。金曜日。
黒ペンで「一周忌」と書いてある。
上半身を起こして、洗面所へ向かった。
飛び散る毛先と膨らんだまぶたが、鏡の奥からあいさつしてくる。康平は二、三度まばたきしてから、蛇口をひねった。両手を受け皿にして、流れる真水を受け止める。康平は閉じたまぶたと両頬にそれを浴びせてから、身支度を始めた。
喪服で包まれた体で、家を出る。秋空が彼に微笑む。
康平はそのまま、広宮市駅へ向かった。
駅に近づくと、長い髪の後ろ姿が康平を出迎えた。康平は彼女に呼びかけた。振り返ると、見慣れた笑顔が視界に映った。
「おはよう」カナが右口角を上げて康平にいった。
「おはよう」
「眠れた?」
「いやー……またあの夢見たわ」
「街が飛ぶやつ?」
康平は小さく頷いた。
「ユミに合えずに、終わるんだよね」カナの問いに、康平は右眉を上げた。
ちょうど電車がやってきたので、二人は飛び乗った。がらん、とした車内のイスに、並んで座る。喪服姿の二人が、青空が映える車窓に浮かぶ。
「ねえ」カナは康平を見やる。
「その夢がもし、ユミ先輩が見せているとしたら」
康平は目を少しだけ丸くさせて、カナを見た。
その時。大きな揺れが、二人を襲った。
電車は勢いよく止まった。
車窓に広がる街並みが、下へ流れていき、代わりに秋空が埋め尽くし始めた。
「浮いてる」
カナの言葉に、康平は息を吞んだ。
(文・小池太郎)