『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』を観た雑感
2年前くらい(アンビバレントの頃)から欅坂にハマっている。
アイドルに興味がなく、どことなく苦手意識を持っていた私にとってセンターにドンと立ち、刹那的なパフォーマンスをする平手さんが衝撃的でそこから追っている。
平手さんの脱退や、改名発表などファンとしては衝撃的なことがいろいろ続いた中でのドキュメンタリーだったので、正直すごく足が重かったが観に行ってみた感想を書いてみる(そこまでネタバレはしていないつもりですが、観に行っていない方は観た後の方がいいと思います)。
人前に立つこと、お金を稼ぐこと
基本的には主軸を平手さんとして進行していた。しかし平手さんがカメラに向かってしゃべりかけるようなことはなく、あくまで周りのメンバーや関係者のコメントの中で浮き上がらせていくような描き方だった。
映画の中でも印象的だったのは、ドーム公演のダブルアンコールにて、ソロ曲の「角を曲がる」のために移動する際、嫌だ、と叫んでいるシーンだった。袖などから見えるテーピングから、体がボロボロであることが想像できた。
しかし、会場のお客さんはアンコールを求めて大きな声で叫んでいる。その声の中で平手さんの嫌だ、という声は小さく、台車でセンターステージへと運ばれていき、そのままステージに上がり、素晴らしいパフォーマンスをしていた。
私にはその「嫌だ」がライブではいつものことなのか、それとも本気なのかはわからなかった。
ただ、平手さんの全力のパフォーマンスは観客の胸を打ち、感動や希望を与える力を持っていたことはわかる。だからこそ観客は彼女がステージに出てくることを求めている。
そこで思ったのは、平手さんは人前に出るときには全力でパフォーマンスをしてしまう、表現に対して真摯でいてしまう一種の”個性”を持っている人間なんだろうな、ということだった。
あえて真摯でいて”しまう”と表現したが、これは人それぞれに持つ個性のようなものと解釈したからである。平手さんの場合はその個性が”人の胸を打った”り、アイドルとしては”お金になる”ものだったのだと思う。
その個性は自分を消耗するものであったとしても、その個性を持つ限り逃れられない呪縛をショーアップしてしまった結果、観客は平手さんを求めるようになった。
観客は平手さんの刹那的で美しいパフォーマンスを求め、それに呼応して彼女は削りながらパフォーマンスをする。
その個性がなかったら、どう生きていたのだろう、と思わざるを得なかった。
人を惹きつける”個性”を持つことは、罪なのか、どうか。
人の苦しみをショーにする
劇中に出てくる歌詞が、その時のメンバーの精神状況や平手さんの状況とシンクロして見えることが多々あった。中でも、先ほどの「角を曲がる」や、「黒い羊」などは歌詞が非常に彼女たちの内面を抉る内容だったように見えた。
昔、離婚経験者の俳優さんに離婚がその話の中核になる物語を演じてもらったことがある。その時、その俳優さんは自分の過去と向き合わねばならず、演じていて過去がリフレインして苦しんでいるように見えた。しかし、その苦しみはショーとして見た時に真に迫り、観客の目を離さないように感じた。
合っているかはわからないが、秋元康さんはそんなものを狙っているのかと感じた。
観客の注目や心に届かせるために、自分の心と向き合い内面を抉ってきた作品は辛いが面白いのは事実だと思う。技術があれば楽しいことをショーとして出来るが、技術には時間と経験が必要である。それができないのなら、内面を抉り鬼気迫る作品を作ることとしたのだとしたら、それは理解できる判断だった。しかし、10代後半~20代前半のメンバーにはかなり負荷のかかるであろうプロデュースであり、なかなかエグイことをするな、と感じた。
他者を理解する
劇中では、キャプテンの菅井さんのインタビューがかなり差し込まれていた。その中で平手さんを「感受性の高い子なので、自分たちが感じていない何かをすごく感じていたのだろうと思う」と表現しているところがあった(正確な言葉ではないけれどこのような内容)。
私は普段の平手さんはもちろん知らない。しかしこの言葉は”感受性が高すぎて、私にはわからない”と言っているようにも感じた。
ここがひっかかったのは、あくまで私は平手さんを前述の”特性”を持っただけの”普通の”人間なのではないかと思ったからだ。
「普通ではない」「すごい能力を持っている」「才能」
これらは自分には理解できない相手の特性をカテゴライズする言葉だと思う。カテゴライズすることで、わからないものに対してその時点で理解を止めて自分の中だけで納得させることができる。
簡単にカテゴライズして、それ以降の理解を深めることをなくしては、真に相手を理解したと思えない(それで言うと理解などは到底できない)ので、近くにいるはずのメンバーがその表現になってしまうことに違和感を感じた。
もちろんインタビューは一部だけが使われているだろうし(本意でない見え方の可能性もある)、相手と真に向き合うには多大なパワーがいるので、それができていなかったとしてそこを責めたいなどではない。事実、一般的にカテゴライズして理解をそこで止めていることなど、この社会の中で多数繰り返されていて、自分も無意識の中でそれをしていると思う。
だからこそ、考えなければならないと感じた。
まとめ
取り留めもないが、強く思ったのはこんなところである。
改名後は櫻坂46となることが発表されたが、応援し続けされるかは今のところ自信がない。