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ドライヤーの『奇跡』:正気で信仰を得ることはできるのか?

私も信仰を持ちたかった。一度きりの人生において信仰を持てるということは、他には代用の効かない唯一のものだと思う。しかしながら、信仰は持とうと思って持てるようなものではない。昔MTVでやってたビーバス&バットヘッドにオシッコのやり方を忘れて大変だ、という話があったが、何かを信じるということも、会得の形式としては同じようなことなんじゃないだろうか。他人が概要は説明できたとしても、最後は自分自身で会得するしかない。


デンマークの巨匠カール・テオドア・ドライヤーによる『奇跡』。本作はあるショックをきっかけにキリストの御言葉だけを喋るようになった次男のヨハンナスを中心に、彼の一家、牧師、また宗派の違う人々が信仰や死を巡って…何と言ったらよいのか、生きていく様が描かれる。生きていくということは、精神的に逡巡し続けることだと私は思う。


本作ではヨハンナスがイエスの言葉だけを話すことからも分かるように、主にキリスト教の論理に沿って話は展開する。しかし本作はそこに留まらず、信仰というものの在り方そのものに深く迫るため、キリスト教にあまり馴染みのない我々の胸をも強く打つ。

ヨハンナスは作中でずっと頭がおかしくなった人として扱われるのだが、そもそも誰かが人生の他の事を全て捨ててイエスの言葉だけを話すようになったら、彼は果たして狂気に蝕まれているのだろうか?信仰の最極北があるとすれば、それはこのヨハンナスのような状態ではないのか?彼とキリスト本人とを区別するものは何か。それは最終的に彼が実際に父と聖霊と三位一体の存在であるかどうか、神から遣わされた人の子であるのかどうか、この違いでしかないのだろうか。


今だに信仰を持つことができない私としては、あの時代に全てを投げうってでも隣人を愛することを説いた、そのために処刑されることになってもその考えを改めなかったイエスについて、彼のその歴史上他の追随を許さない程の優しさだけを信じる。「金持ちが天国に入ることは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい。」彼は我々にそう語った。覚えていますか?


アメリカの作家カート・ヴォネガットの文章には「新約聖書から何か学べることがあるとすれば、それは誰かを痛めつける時にはまずそいつが有力者の親戚じゃないか調べろってことだ。」というようなものがあった。ひどく冷笑的ではあるが、これは私の疑問に非常に近いのではないか。この現代にイエスと全く同じ行いをする人がいたとしたら、それはやはり頭のおかしくなった人なんだろうか。奇跡とはそれを信じる人々と共にでなければ為し遂げられないものなのか?こうなるとオースティンやサールの言語行為論をも参照しなければならないのか。イエスを信じるのに言語哲学が必要?何かを信じるとは果たしてそんなに難しいことなんだろうか。

宗教に対する信仰は、最後の最後で非論理への跳躍を求められる。これは結局、前述したように人から教えられるものではなく、自ら会得するものなのだろう。


しかしこの『奇跡』が素晴らしいのは、そんな私のようなガチガチの信仰の在り方とは別の、もっと柔らかい在り方の可能性をも示しているところだと思う。そう、本作では宗派の対立により一度は断絶した人々が、大きな苦しみを前に再び手を取り合う様が描かれるのだ。このシーンを見たときに私は全ての合点がいった。信仰とは本来我々の平安のためにあるべきであり、信仰の論理そのものの厳格さが我々を打ち斃すことがあってはならないのではないか。よって、いくらキリストの生き写しになろうとも、それまでの人格を、皆に愛されていた人格を失うヨハンナスのような信仰の在り方は、やはり間違っているのではないか。神への信仰とは言えども、それはやはり我々が隣人とともにより善く生きるためのものに他ならない。


作中で終盤に年老いた牧場主が放った言葉が、エンディング後もいつまでも心中に木霊する。「この子は小さいから、死というものについて何も分かっていないのだ。そして、我々自身も何も分かっていない。」そう、我々は死についても、生きるということについても、何も分かってなどいない。生きるということは、精神的に逡巡し続けることだと私は思う。 

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