『さよなら絵梨』:創作という人間の営みについて
人間は記憶や記録によって過去の出来事を思い出したり他者と共有したりすることができ、それができることによって他の類人猿とは違うヒトとなり、この星にこれだけ繁殖してきた。しかし一方で、これによって背負った弱点もある。トラウマ的な出来事を何度も思い出してしまうことだ。それは深い苦しみであればあるほど、我々を呑み込む渦となって何度も繰り返し眼前に、鮮明に蘇る。それは時に致命傷となり得る。そう、長所として発達した牙が、やがて自らの脳を貫くバビルサのように。
だがしかし、我々はそれをも超克する技術を会得した。『嘘』、或いは『フィクション』だ。人は直面し続けることや受け入れることが難しい出来事に直面した時、それを認識の領域で一部改変することで折り合いを付けてきた。ある時は出来事の一部をなかったこととしたり、どうしようもなく悲しい出来事を美しい形に作り直すことによって、気まぐれに悲しみや絶望をもたらすこの不安定な世界との折り合いを付けてきた。それはある種の根源的な、祈りのような試みなのだと思う。
本作では、そのフィクションを創作する営みが、その切実な取り組みが、とても真摯に描かれていると思う。作中では唐突に爆破のシーンが出てくるが、この爆破こそが耐え難い出来事に立ち向かうための祈りなのだろう。突飛な物語にしなければ乗り越えられないほど哀しいことは誰にでも起こりうるし、想像の中で爆破でもしなければ正気を保てないほど辛いことも起こりうる。私は、端から見ればどんなに馬鹿げた創作でも、それが作者にとって個人的に真摯な闘いである可能性を常に忘れない、そのような姿勢で生きていたいと思う。
他愛のない嘘をつくのが大好きだった武田麟太郎が4月1日に死んだことに『最後の最後に大デマを飛ばしやがった!!』と涙を流しながら手を打つ織田作之助のように。ドレスデン大空襲に居合わせて、罪のない数多の人々が焼き殺されるのを見たカート・ヴォネガットが『そういうものだ』と肩をすくめることしかできなかったように。
しかし藤本タツキは『チェンソーマン』の頃から巻末コメントが毎回「〇〇(映画のタイトル)大好き!!」だったり、特徴的な台詞やコマ割りからも映画が大好きなんだろうなぁと思っていたが、本作はズバリ映画を撮ることがモチーフなのに加えて、カメラをパンした後にフォーカスを合わせるところなんかも律儀に表現してたり、コマのアングル=カメラの動きで撮影者の心情を表現したりしてて、漫画表現史にも残る意欲的な作品になっているんじゃないかと思う。下敷になっていると思われる映画『僕のエリ』は折り合いの付け難い現実に「愛」という軛をもって自らを立ち向かわせる話だったのに対して、本作は「フィクション」という孤独で自由な取り組みから乗り越えを図ろうとする試みの物語になっていて、そこも素晴らしいアンサーだなぁ。
我々の切ない記憶も、一度物語となってこの世界に形を残すことができれば、当の我々がいつか死んでしまったとしても、次にそれに触れた人がその美しさを知ることができる。私が死んでしまっても、それに触れる人が居続ける限り、これからも何度も何度もその美しい出来事は蘇り続ける。この世に永遠というものがあるとすれば、それはこのような形で固着された美しい瞬間なのではないかと思う。そんな物語だと思います。
人はいつか死ぬから。