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父親というフィクション
私は父のいない家庭で育った。父性が一体どんな種類の愛なのか想像もつかない。だからこそ私は性愛の伴わない男性の愛情に異常なほど興味と執着がある。(息子から母親への愛情とか。)
私にとって"父親"はフィクションだ。
澁澤龍彦は"娘" をフィクションに留めておくことで、甘美で背徳的なユートピアにした。ただ、澁澤は娘を持たないという選択肢を選べたが、幼い私に選択の余地はなく気づいたらそれを持っていなかった。だけど成長した私は"父親"という虚構を楽しむことができる。フィクションとして"父親"を消費することで、過去の寂しさや怒りを昇華できる。
私にとって"父親"はユートピアだ。
"夢女"ならぬ"夢娘"。きっと父性にはどんな恋愛よりも遥かに強くて尊い愛があるに違いない。ホンモノを知らないからこそ、その虚像が理想や幻想とわかっていても信じ続けることが出来る。私にとっての"父親"はカニカマやメロンソーダと同じだ。
私の理想の父親は、澁澤龍彦で涅マユリで大学時代のイタリア語の先生で最近娘が産まれた会社の上司。みんな素敵な"父親"で、みんな私の"父親"だ。(澁澤の娘はドールだけどそこがイイ。彼にとっての娘もまたカニカマでメロンソーダなのだから。)
そして、いつも30代前半の"父親"を見かける度、胸がキュッとしたりなぜか安心したりあるいはその娘に対して嫉妬したりするのは、それが私が最後に見た私の父の年齢だからなんだろう。
SNSである人が「あなたを揺さぶるフィクション」というお題でエピソードを募集していたのがきっかけで、私にとって心を揺さぶるフィクションは父親だな〜と思ってダラダラ書いてたけど、まとまらなかったから供養!
負の感情を乗り越える時はいつも消費という形をとってしまう。