話を聞くことに意味を見出すか、関係ないと切り捨てるか ―18/1000―
会話には2種類の人が必要です。それは話し手か聞き手です。世の中に出回っている自己啓発の本には聞き手にまわることで相手の心をつかめるとか、面白い話ができなくても会話を続けられるとか言われますが、それはどのような状況でも当てはまるものなのでしょうか。
例えば小学生や中学生のときの校長先生の話はどうでしょうか。
果たして何人の人が本当にありがたい、ためになると思って話を聞くことができていたのでしょうか。恐らく、ほとんどの方がその時に話していた内容を思い出すことはできないのではないかと思います。私の場合は、とりあえず真剣には話を聞いてました。自分がクラスの委員長をしていた時期もあったため列の一番前に並んで座っていたので聞かざる負えない状況であったこともあります。ただそれでも覚えている校長先生の話は限りなくゼロに近いです。ただ学校という教育施設のなかでは、自分では意味がないと思っている内容であっても先生が工夫を凝らして何かを伝えようとしてくれている可能性も否定できないので安易に聞く、聞かないを決めるべきではないのかなと思います。
では日々の雑談ではどうでしょうか。果たして聞くことに意味があるものはいったいどれだけあるのでしょうか。もちろん、意味とか関係なく単純に話しておもしろいのであれば何の問題もありません。しかし、相手のためを思って話していることが自慢に変わったり相手に叱るのではなく感情的に怒るときはただ聞き役にまわることに意味があるのでしょうか。職場で相手が自分よりも上の立場で相手の機嫌を取りたいときは意味があるでしょう。ただ友達のような関係であれば一方的に話を聞くことはあまり意味のないように思えます。
ここで少し話題を変えてインターネットを利用するときにはどんなことを意識しているのかを考えてみることにします。ネットの情報は自分にとって有益なもあれば無益あるいは有害なものもある玉石混交です。したがってネットの検索エンジンを使うときは自分の知りたい情報にいち早くアクセスするため、キーワードを入れて検索すると思います。全く知りたいとも思っていないことを調べようとは思わないし、目的なくすべてのホームページをチェックする人はいないでしょう。つまりこれをコミュニケーションに置き換えるとするならば、無益な話はキーワードを入れてない検索エンジンの検索結果と同じで、ヒットした内容をただひたすらに聞かされている状況と変わりありません。自分の都合で終えられない分、それ以上にたちの悪いものであると言えます。
「自分にとってその話が有益か無益か?」きれいごとを抜きにして聞きたい、知りたい情報を取捨選択をすることは重要であると思います。そうでなければ無駄に時間を過ごすことになってしまいます。それは意味があると思って話してくれている人にも聞いている人にも利を生み出さないものです。ただ自分にとって都合が悪いことや聞きたくないことであっても本当の意味で有益な情報であることもあるので、仮にこの話を聞かないと決めるときは自分自身としっかり向き合って慎重に決めることが必要であると思います。
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