パンク青年イエス
(Facebookのノートの再録です。公開された2015年12月27日とは状況が変わっております)
三里塚教会の牧師にお目にかかってから、ずっと三里塚教会問題について考えてきました。どう資料を読んでもわからなかったので、師匠の師匠は大師匠であるという無茶な理屈で、うちの教会の牧師の恩師であり私の友人の実習教会の牧師でもある先生にもこの原稿を読んでいただき、当時の空気を知っている方ならではの経験と見識を伺うことができました。押しかけ孫弟子として大師匠と呼ばせていただきます。
神学校を卒業したてでこの問題に立ち向かわなければならなかった川島牧師の姿が、私の神学生の友人の姿と重なってしまいました。私にはどちらが正しいか、裁くことができません。赦しと和解を祈ります。
マルコによる福音書/12章 29-31節
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
この言葉はもともと、律法の専門家である律法学者がイエスを試そうとイエスにした質問の答です。同じ話をしているマタイの福音書22章36節に「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」とあります。
元になった律法は、申命記6章4-5節「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と、レビ記19章18節「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」でした。
律法学者とはどのような人であったか、マルコ福音書21章 38~40節でイエス自身がこう語っています。
「イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」
当時ユダヤで生活の規範とされていた律法は、モーゼが神から与えられた啓示のはずですが、これを研究していた彼ら自身が神の権威をかさに自分を誇示していると、イエスは彼らに厳しい目を向けます。あれを食べるなこれを食べるな、皮膚病は穢れだから近づくななどと、そんな細かい禁止事項を守ることよりも、神を愛すること、人を愛することが大事だと、イエスは説きました。マタイによる福音書5章17節に、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」とあります。細かい規則を守ることではなく、愛で律法を完成させよ。一番大事な掟は愛である。まるでジョン・レノン、ブルーハーツ、忌野清志郎さんのようです。イエスはなかなかパンクでした。彼は当時の権力者にユーモアと勇気をもって立ち向かっていきます。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
ヨハネによる福音書8章の中に出てくる、聖書に馴染みのない人でも知っている有名な言葉です。姦通の罪を犯した女性は、このイエスの言葉によって石打ちの刑から免れます。イエスの言葉を聞いた者は、年長者から始まってその場を去っていく。地面に指で何かを書きながらこの様子をうかがっていたイエスは、誰もいなくなったのを見計らい、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」。
このときのイエスは、たぶん、笑っていたでしょう。罪のない者などいないじゃないか、お前たちに人のことが言えるのか、お前たちに人を裁く権利などない。何様のつもりだと、反骨の気概にとんだ若者イエスの姿が見えるようで、私はこの話が大好きです。そしてイエスも「わたしもあなたを罪に定めない。…」と、この女を許すのです。
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」
マタイによる福音書5章39節です。悪人たちに手向かうなという教えですが、反抗の言葉でもあると思います。殴ったところで、私はお前たちの言うなりにはならないという決意表明にもとれます。
イエスも完璧ではなかったと、私は考えています。イエスが自分の住む町に来たと聞いた、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ外国人の女性にイエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」。外国人を犬呼ばわりするとはひどい話です。その挙句の診療拒否など、今だったら大問題です。しかし彼はこの間違いによって、キリスト教が全世界に広がるきっかけを作ります。イエスは内面に弱さを持っているゆえに、弱い人の味方であり続けました。
イエスの人としての肉体をもった伝道者としての活動は、たった3年間で終わってしまいます。病人を癒す力を利用すれば、お金儲けもできたはずです。よき説教者として下手に出て、祭司たちを味方につけることも出来たはずです。
イエスの裁判は、どさくさ紛れに無理やり殺したようなものでした。イエスは民衆に支持されたゆえに、嫉妬を買い、殺されたともいえます。人々が皆、彼を信じるようになると、当時ユダヤを支配していたローマ帝国が、彼を旗印に民衆が反乱を起こすと疑い、ユダヤ人が信じていた神殿を壊し国民を殺すかもしれないとは、言いがかりもいいところです(マタイ26章48節)。
イエスの裁判は夜行われましたが、本来は昼に行うべきものでした。死刑にするために証言を集めましたが、その内容が人によって少しずつ違います。当時のユダヤの裁判では、証言が少しでも違えば無罪になります。イエスは冒涜罪で死刑になりましたが、神の子を自称するだけで死刑にするには根拠が弱すぎます。「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだとわかっていたからである」とマタイ27章18節にあります。この場合の人々は、祭司長たちや長老たちです。イエスを死刑にすると判決を下したピラトは、自分には責任がないと言い切りました。
借り物の言葉ではなく、無学な民衆にもわかるように、たとえ話を用いてわかりやすく自分の言葉で語り続けたイエスは、彼自身の愚かさ弱さによって、神の偉大さを知らしめました。人として小さくされたイエスは、小さくされた人々の味方であり続けました。私はイエスの弱者に対する優しさ・理不尽なものに対する反骨精神を愛しています。主イエスに用いられる器になれればと、学びを続けています。
日本基督教団の三里塚教会が2つあることはご存知でしょうか。日本基督教団のサイトには、千葉県成田市三里塚御料1-1487と記載されています。ところがインターネットで検索すると、同じ成田市の三里塚47-2にも三里塚教会があると出てきます。ここの牧師は八木かおり牧師。幕張教会の牧師も兼ねているようです。しかし、日本基督教団のサイトに出された2008年10月の教団からの知らせには、第39回「日本基督教団開拓伝道協議会のご案内」で三里塚教会問題に関して報告を行った八木かおり牧師は三里塚教会の牧師ではない、日本基督教団三里塚教会の牧師は川島正行牧師であり、その旨は何度も教団内で決議されていると、長々と書かれています。
「三里塚教会問題」とは何だったのでしょうか。この問題は成田空港の建設に大きな関係があります。元々三里塚教会は三里塚47-2にありました。この土地を教会に貸していた信徒、戸村一作さんは成田空港の建設に反対し、牧師に三里塚教会からも成田空港建設に反対声明を出そうと相談します。しかし川島牧師は政治と宗教は別だと、それを断ります。それに怒った戸村さんは、以後礼拝には出ない、献金もしない、貸していた土地を返してくれと、牧師に告げます。
川島牧師は神学校を卒業してすぐの1964年4月に、三里塚教会に赴任しました。赴任して間もなく、同じ神学校を出た女性と結婚をし、子供を授かります。赴任して2年後の1966年、成田に国際空港が作られることが決まりました。神学校を出たての未経験の新米牧師が、突然、国と戦えと迫られる。教会は政治とは無関係でなければならないと、彼は戦いへの参与を断ります。すると、街宣車は来る、土地を返せと迫られる。幼かった子供を抱え、逃げるしかなかったそうです。怖かったと思います。教会は牧師が思い通りに運営できる組織ではありません。教会員が牧師を罷免することもあります。三里塚教会は幼稚園を運営していました。自分の家族以外に幼稚園の子供たちも守らなくてはいけません。わたしには神学生の友人がいます。彼が神学校を卒業し赴任した教会でそんな目にあったらと思うと、胸がつぶれる思いでした。
とはいえ、信徒を除名するとはどういうことなのでしょうか。教会はどんな人にも開かれているはずです。しかもこの除名は本人に通告されていない。どう考えても異常です。川島牧師は土地は捧げられたものだと主張し、戸村氏は土地は無償で貸したものだと主張します。川島牧師も戸村一作さんも、既に天に召されました。三里塚47-2の三里塚教会では、まだ礼拝が行われています。教団がかたくなに、この祈りの家の存在を認めない理由がわかりません。問題が未だにクリアにならない理由がわかりません。
私の好きな、平和を求める祈りのこの一節をもって、祈ります。
主よ わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい。憎しみのあるところに愛を いさかいのあるところにゆるしを 分裂のあるところに一致を
参考文献;「季刊 教会」No.86 日本基督教団改革長老教会協議会(2012年2日刊行)
『教会と宣教を問い直す――三里塚教会問題』三里塚教会問題を担う会「三里塚教会問題史」刊行委員会(1996年11月)