【サッカー考察論①】トレーニング理論を理解するという重要性。
皆さんこんにちは。西田です。
今回は、トレーニング理論を理解することの重要性を自分の選手時代を振り返りながら書いてみたいと思うので、是非最後まで読んでいただきたいと思っています。
前回の記事ではこんなことについて書かせてもらいました。まだ読んでいない方がおられましたら、是非こちらの記事も読んでいただきたいと思っています。
【トレーニング論的観点から見たサッカー】
皆さんは、サッカーで一番重要なことは何かと聞かれたら何を思い浮かべるでしょうか?
メッシのような技術、ファン・ダイクのようなフィジカル、シャビやイニエスタのような戦術理解力や個人戦術、そして本田圭佑のような強靭なメンタルなど。。。。
人によって意見は分かれると思いますが、私にとってサッカーというスポーツは、これらの要素全てが欠かせないスポーツはないかと思っています。これはどのスポーツでも同じことが言えるとことだと思いますが、つまり、高いパフォーマンスを発揮するためにはこれらの要素は必須であるし、世界のトップレベルで戦ためには、これらの要素全てが高いレベルで備わっている必要があるのです。
では、この「高いパフォーマンスを発揮する」ためには何をしなければいけないでしょうか?
その答えは、当たり前のことに思えますが、トレーニングをするということです。
しかし、このトレーニングをするということは、最も重要なことであると同時に、最も難しいことでもあります。なぜなら、どのスポーツにおいてもそのスポーツにとって意味のあるトレーニングをしなければ、いつまで経ってもパフォーマンスを向上させることはできないからです。
では、どのようなトレーニングを行えば、パフォーマンスの向上につながるのでしょうか?
スポーツは長い歴史のなかで、その選手、そのスポーツにとっての最適なトレーニングを見つけるために、多くの人物により様々なトレーニング方法、トレーニング理論が唱えられてきました。
サッカーにおいてもその歴史は長く、今までに数多のトレーニング論が唱えられてきました。
その中の一つに、私がなるほどなと納得した理論があるので、今回ここで、そのある人物によるトレーニング理論について紹介したいと思います。
それは、現在のFCバルセロナのトレーニング理論の礎を築き、長きに渡ってその躍進を支えたフランシスコ・パコ・セイルーロという人物が提唱した「構造化トレーニング論」と呼ばれる理論です。
この理論は簡略的ですが、以下のように説明されています。
サッカーは、サッカーに関わる様々な要素はそれぞれで独立しており、その総和こそがサッカーであるという「要素還元主義」「デカルト式」として捉えるのではなく、それぞれの要素はお互いに複雑に絡み合い、相互関係を持った1つの構造であるという「構造主義」として捉え、サッカーのトレーニングは考えなければいけない。
つまり、パコ・セイルーロはこの「構造主義」のもと、サッカーのトレーニングとは、サッカーというゲームの構造とそのダイナミクスそのものを捉えてトレーニングは行うべきであるということを提唱し、それに基づいたトレーニングを当時のFCバルセロナに持ち込んだのです。
すなわち、全てのスポーツはそのスポーツに特化したトレーニングが必要なため、サッカーを練習するにはサッカーというスポーツの特性、必要な要素、能力が向上できるような練習をしなければならないということなのです。
【私がこの理論に共感した理由】
なぜ私がこのトレーニング理論を初めて読んだときに凄く納得できたかと言いますと、残念ながらこの理論の真逆のことを私は選手時代に一生懸命行ってしまっていたからです。
私は大学4年生の11月ごろに引退した2020年まで、サッカー選手として、サッカーを続けていました。なんとなくサッカー選手になりたいという思いで始めたサッカー。高校あたりから、薄々自分の実力ではプロにはなれないと気づいていたものの、サッカーをプレーすることが楽しくて辞めることができずに、気づいたら大学でも部活動に所属し、サッカーを日常の最優先事項として生活していました。
ここで、私が実際に過度の練習から経験した失敗談について書いてみようと思います。
私が高校時代に所属していたサッカー部は、選手の疲労度なんてものは一切考慮されていない、ただただ負荷の高い練習がオフもなく毎日のように行われていました。しかも、グランドは土であったため、雨が降った日にはサッカーをすることができず、学校の周りをひたすら走らされるなんてことは日常茶飯事でした。
しかし、当時の私は疲労に関する知識や正しいトレーニング負荷やメニューなんて知らなかったために、「このメニューを妥協せずにやり切ればサッカーが上手くなる。」「疲労が残っているのは食事の量に問題があるからだ。」などの哀れな考えのもと、何事も無我夢中でメニューをこなし、練習後には自主練まで行ってしまっていました。
そしてその結果私にもたらされたものは高パフォーマンスなんてものではなく、過度の疲労から発症した椎間板ヘルニアにより、大学時代の1年間を棒に振ったというものだけでした。
この失敗談から私は、練習はパフォーマンスを向上させるために行うものなのに、怪我をしたり、むしろパフォーマンスが低下しているのは、行っているトレーニングに問題があるのではないか?と気づき、その頃から自主的にトレーニング理論や、トレーニングごとの負荷、疲労の回復、怪我の予防などに興味を持ち始めました。
なので、このパコ・セイルーロの理論に出会ったときは、すんなりと自分の中で納得することができましたし、トレーニングの重要性を知ることができました。
【まとめ】
最近ではモダンなサッカーとして様々な戦術や考え方などが日本でも目にすることが増えてきました。
しかし、それらはトレーニングの負荷、選手の疲労度、トレーニング内容、効率等がしっかりと考慮されたうえで行うことが大前提だと思います。
経験談なかで書いた「ただ疲労を蓄積させるトレーニング」では、いくらやってもパフォーマンスの向上なんてものは見込めませんし、むしろ私のように体を壊して、長い期間サッカーが出来ない可能性を高めるだけです。
今振り返ると、私が高校時代で行っていたトレーニングは、セイルーロから言わせると「デカルト式」の練習だったのかもしれません。
つまり、サッカーは多くの要素が関わるスポーツだから、その関連する各要素のみにフォーカスを当て、練習を行うというやり方です。
サッカーは走るスポーツだから、それを鍛えるために外周をする。
サッカーはコンタクトスポーツだから、筋トレをする。
サッカーはシュートを決めないと勝てないスポーツだから、ひたすら同じ角度、同じ配球、相手のいない状況でシュート練習をする。など、、、
果たして、このような考え方で普段からトレーニングを行っているチームは一体いくつあるのでしょうか?
そして、「勝つためだ」「チームのためだ」など訳の分からないを言って、選手を自分の手駒のように扱っている指導者は何人いるのでしょうか?
私は彼らのような人を決して指導者と呼ぶことはできません。なぜなら、それらは「サッカーの指導」をではないし、自分の知識の無さを力や権力で覆い隠そうとしている愚行に過ぎないからです。
指導者は、選手たちにサッカーを理解させ、上達させ、楽しませる義務があります。
決して1日たりとも粗末なトレーニングを考え、選手たちにやらせてはいけないのです。
そのくらいサッカーにおいて、トレーニングは重要であるし、その重要性を私たちは理解しなければ、サッカーを指導する資格はありません。
「サッカーが上手になりたい」と思う選手がいる限り、私たちは彼らに対し、全力で向き合って、「サッカーの指導」を行わなければならないと思っています。
今回は、トレーニング論からサッカーにおけるトレーニングの重要性について書かせてもらいました。
あくまでも個人的な意見ですので、トレーニングに関しては様々な考えがあると思いますし、むしろあるべきだと思います。
そして、私も一指導者として、選手たちがサッカーの面白さを理解し、上達していることを実感できるような指導が行えるように、日々成長していきたいと思っています!
それではまた次回の記事でお会いしましょう!
Hasta luego!