音のない世界
目を覚ましたとき、空はいつもと違う色をしていた。灰色、ではなく、どこか淡いブルーに染まった空に、白い雲が流れている。その下で、歩いているのは青年――カナメだった。
カナメは自分が今どこにいるのか、全くわからなかった。だって、目を覚ます前までいた場所、家、街、すべてが記憶に残っていないのだから。
「ここは……?」
彼は立ち止まり、辺りを見回した。空の色が不気味なほど綺麗で、どこまでも広がっている。まるで現実ではない場所にいるかのような感覚に襲われる。
そして、最も奇妙だったのは、全く音がしないことだった。
足音すらも、風の音さえも、何も聞こえない。ただ、カナメの息遣いだけが、自分の耳に届く。
「……不安だな。」
その言葉も、風に消えていく。
カナメは歩き始めた。どこに向かっているのかもわからない。ただ、目の前に広がる道を進むことしかできなかった。
やがて、道を進んだ先に小さな村が見えてきた。家々は木造で、どこか懐かしい雰囲気を醸し出している。しかし、静寂が支配するその村も、どこか不自然な空気が漂っていた。
「誰かいるのか?」
カナメは村の入口で足を止め、誰かがいないか探した。しかし、道には誰一人として見当たらなかった。店の前に置かれた看板、窓の向こうにぼんやりと灯る明かり、すべてが異常に静かだ。
「おかしいな……」
カナメは村を歩きながら、心の中でその理由を考えた。普段なら、街角に人々の話し声や笑い声が聞こえてきてもおかしくないはずだ。なのに、ここは音が一切しない。
「ここにいるのは、僕だけ……?」
カナメがそんなことを思っていたとき、ふと背後から声が聞こえた。
「こんにちは。」
驚いて振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。彼女は普通の服装をしていて、少し短めの黒髪を風になびかせている。微笑んだ顔が、どこか不思議な雰囲気を持っていた。
「お前……今、何も聞こえてなかったのか?」
カナメは、少し混乱しながら尋ねた。音が全くしない世界にいるはずの自分が、いきなり誰かと話すことに戸惑っていたからだ。
少女は少し首をかしげた。
「聞こえてなかったんじゃなくて、気づかなかったんじゃないの?」
「え?」
カナメがきょとんとしていると、少女は静かに歩きながら言った。
「この世界には、みんな耳が聞こえないんだよ。」
「……耳が、聞こえない?」
カナメはその言葉を理解できず、何度も繰り返すように問い返した。
「どういうことだ?」
少女はにっこりと笑って、カナメの横を通り過ぎる。
「この世界ではね、音がないんだよ。みんな、耳ではなく心で聞いている。だから、君が今感じていることが、そのまま君の『音』になるんだ。」
「心で……?」
カナメはその言葉をかみしめるように口に出す。確かに、今まで聞こえなかった音が、ふと頭の中に響くような気がした。
「そうだよ。この世界には、音がない。でも、その代わりに心の中で、音を感じることができるんだ。」
「どうして……?」
カナメが疑問をぶつけると、少女は肩をすくめて言った。
「それはね、誰もが忘れたから。音が必要ないことに気づいたから、音は消えていったんだよ。昔はみんな、音を聞くために耳を使っていたけど、今はそれが当たり前だと思ってるから。」
カナメは思わず立ち止まる。その世界には、音がない。そして、耳で聞くことがない。
「……じゃあ、どうやって会話をするんだ?」
「心で話すんだよ。」
少女は答え、目を合わせた。その目は、どこか温かく、優しいものだった。
「君もできるよ。最初は少し不安かもしれないけど、心で話せば、君の言葉が相手に伝わるから。」
カナメは黙ってその言葉を考えた。だんだんと、心の中に温かい感覚が広がってくるのを感じた。耳で聞こえる言葉だけが会話じゃないんだ、と感じる瞬間だった。
「……ありがとう。」
カナメがそう言った瞬間、少女は微笑んで、ゆっくりと歩き去っていった。その後ろ姿を見ながら、カナメはふと思った。
この世界で、音が消えたわけじゃない。音を感じる方法が変わっただけなんだ。
そして、カナメもまた、その感覚を受け入れる準備ができているのだと、心の中で感じた。