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海援隊の歌は未聴ですが

市原氏

カウボーイ・ビバップへのすさまじい熱量を放出いただいたところで切り出しにくいのですが,実はわたくし,同作品,未履修であります。

登場人物の名前・キャラ設定とストーリーは,ふんわりと。OPのカッコ良さは鮮明に。という程度の知識しか持ち合わせていません。

なぜ,エヴァはとおっておいて,この作品をとおっていないのか。我ながら不思議に思い,放送年を調べてみたところ,1998年とある。

(あぁー…たぶんこれ,テレビもってなかった時期だわ…)

そう思い出して,合点がいきました。

特段の理念・信条があったわけでもなく。単に,一人暮らし用に購入した手持ちのちっちゃなテレビデオが壊れたのを機に「あんま見てないし…次のバイト代が入るまで間があるし,ひとまず買わないでみっかなー」と,テレビを見る習慣ごと手放した時期が10年ちかくあったのでした。そういえば。

時はインターネット黎明期。わたしもはじめて自分用のパソコンを買い,「ネットサーフィン」をはじめます。それまでなんとなくテレビを流していた時間は,そのままPCに向き合う時間へとシフト。

小さなノートPCと,ラジオと,マンガと本。

テレビの不在に,何の物足りなさも不便も感じる隙がありませんでした。

しかし,振り返ってみると『ビバップ』のほかにもぱっと思いつくだけでも『ブギーポップ』,『ひぐらし』,『nice boat』……当時話題となった/今もときおり話題となる作品との出会いを,リアルタイムで体験せずにきてしまったのはなんとももったいないことをしたものだ,と残念ではあります。

日々のテキストサイト巡回も,それはそれはたのしかったんですけども,ね。

***

40歳をすぎてから,「思えば遠くへきたもんだ」というフレーズがちょくちょく浮かぶようになりました。

肉体も精神も,日々変化を続けるものだと頭では理解しています。年齢相応のふるまいとはなんだろうか,などとぼんやり考えつつ,「年長者」ヅラをして年下にマウントをとらないよう気をつけることはありますが,必要以上に「老い」を嘆いたりする気持ちも,老いの実感もさほどなかったりします。

この,鏡の前に立った時などに感じる「まぁ,こんなもんだよね」という感覚は

実際、人間の脳は「差分をチェックする」ところにかなりの労力を割いています。視覚にしても聴覚にしても触覚にしても言えることで、私たちは感覚器に入ってきたシグナルすべてを常時全数認識しているわけではなく、あくまで、「変わった部分だけをチェックする」ようにできている。

ちなみにジェットは走る岩
Shin Ichihara/Dr. Yandel


おそらく,脳が差分を微修正・微調整してくれる結果なのでしょうね。あぁ,なんて優秀な脳。


でも,そうして微修正され続けてきた差分の大きさを,そしてその微修正能力の高さをつくづく実感されられるのは,たとえばいまの流行歌をじっくりと,歌詞を眺めながら聴いたとき。あるいは,ぜったい好きな予感!と勇んで購入したエッセイ本を読み終えたとき。


(たしかにすごく良いし好きだけど,20代か30代の頃に出会ってたら,めちゃくちゃ号泣して大ファンになっただろうな)


そう思ってしまった瞬間に,わたしは軽く愕然とするのです。


目の前の作品がクリティカルヒットしたであろうあの頃のわたしは当時,20年後のわたしが,こんなに違う生き物になるなんて想像もしていなかった。


変化を恐れるな! というフレーズが,なんとなく「よいもの」として取り扱われているということは,ヒトは元来,変化を嫌がるものなのでしょうね。

たしかに,20年前のわたしが「これが20年後のあなたです」と未来人からスペック表を手渡されたとしたら,なにかしらの大きなショックを受けるのじゃなかろうか,そして歳を取ること,日々を生きて変化していくことに強い抵抗を示すのじゃないだろうか,そんな予感がひしひしとしています。


脳の微修正能力は,変化してしまうことへの自己防衛本能でもあるのだろうか。

市原さんのお手紙を拝読しながら,そんな妄想をしました。


あ,先日,またひとつ歳をとりました。
万物流転みを感じる2月です。

(2022.2.18 西野→市原)