With a little prayer
いちはらさん
ながいながい夏が終わって,ようやく秋がやってきました。
よい気候にホッとしたのも束の間,Radikoから流れてきた「今年の秋は,日中は夏」という気象予報士の声に,思わず携帯を二度見したりする日々です。
一方で,世の中はほんのりと年末の雰囲気をまといはじめましたね。
そういえば毎年このあたりが暮れの入り口だったっけと「思い出した」ような感覚で,端末上を流れゆくさまざまな情報を眺めています。
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先日読んだ本のなかに「人の人生は,記憶は,その人が生きてきた風景にある」ということが書いてありました。そこを読んだとき,わたしは自然と,この往復書簡のことを思い出していました。
そうしてこれまでのおてがみを読み返してみると,きっと意図して記したわけではないそのときどきの時候のご挨拶が,わたしたちの脳に浮かぶあれこれを彩りながら,導いてくれた。どの回も「あの年の春」「この年の冬」それぞれの風景があったからこそ立ち現れたものだったように感じます。
そういえば,この文通をはじめてから。たとえば会社に向かう道すがら,ふと見上げた青空を行く飛行機の白さに,ふだん顔を合わせない友人たち−−もちろん,いちはらさんも−−が暮らす「いまの風景」を想うことが増えました。
ふしぎと,SNS上の,顔も知らない,だけどそこはかとなく親しみを覚えているアカウントの方々のことも,同じように。
誰かの「いま」を想うことは,「元気でいてね」という小さな祈りとワンセットですね。でもその祈りのうえには,いつも小さく「サヨウナラ」とルビがふられている気もしています。
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心理学用語としての「愛着」は「母子間の心理的な結びつき」を指すと,何かの本で読んだことがあります(一般的な用法と,結構な距離感のある言葉だなあと,当時は感じたことを覚えています)。
たしか,その本には「愛着は,他者との信頼関係の基盤になるもの」とあったはずです。
この記憶が確かならば,文通をとおしてわたしは,愛着を再形成したのではなかったでしょうか。
いちはらさんなら,きっと伝わる。きっと拾ってくれる。
そんなふうにして,4年の間,おてがみを送るときにいちどだって不安を覚えることはありませんでした。
長く続いた文通に愛着はないのか,と問われれば,当然のようにあるのだけれど。
だからこそ。
ここでいちどお開きにしても,きっと大丈夫,という確信に似た思いもまた,わたしの胸にはあるのです。
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このやりとりが辿り着く先はどこなのだろうかと,たまにぼんやり考えていました。そしていま,最後のおてがみを書いているわたしの脳に浮かんだのは「船出」でありました。
ああ,ここは終着駅ではないのですね。
少し懐かしくて新しい出発点。
わたしたちは,それぞれに,またどこかへと。
いちはらさんの脳にはいま,どんな風景が広がっていますか。
(2023.11.2 西野→市原)