レトロスペクティブ・リコール
いちはらさん
前置きなしのコミュニケーション,ですか。それはたしかにハードルが高いですね。
きっかけはなんだったか忘れてしまいましたが,ふと「htmlについて知りたい」と思い立ち,少しだけいじり方を調べた(そして挫折した)ことがあります。
プログラミングのいっちばん最初の行に打ち込む ”宣言”ってありますよね。「ここではこの変数つかうよー」っていう,入力しないと以降のプログラムが正しく動かないやつ。
その存在を知ったときに,「この"宣言"って”前置き”みたいだなあ」と思ったことを,おてがみを拝読して思い出しました。
プログラミングの"宣言"がもつ意味合いと「わたしは今日,こういうテンションで・こういうポジションから発信をします」と明示する"前置き"が,わたしの目にはよく似通っているようにみえたのです。
そんな当時の感想を頭の隅におきつつ,いちはらさんのおてがみを再読して,(宣言不要で影響力のある発信ができる人は,そもそものプログラミング言語がふつうの人と違う……とか,どうかしら)などと,雑な見立てをしばらくふんわり楽しみました。
以上,今回の前置き。
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おてがみをいただいてから,ずっとこのことが頭のどこかにあるのを感じています。
過去側の断端…どうやったら作れるだろう。作ったとして,ただでさえ頼りなく思える「過ぎ去った時間」にあるその割面は,どれほど鮮明に,確かなものとして観察できるだろうか。そしてそもそも,過去側から観察することの意義とはなんだろうか…。
少しだけ眉間の皺を深くしながら,教科書をひらき,「記憶」の章をぱらぱらとめくるうち,「記憶の再符号化」の記述に目がとまりました。
”過去の記憶が想起されると,その記憶は再度「記憶形成」の処理(再符号化)を受け,より強度が増す”
そのような記載に,ふむふむと頷いた,その先に。
"再符号化では,それが起こった時点での「新しい環境」に関する情報が,古い記憶とともに再符号化されうる。"
…なんということでしょう。わたしたちは過去を思い出すとき,思い出されたその記憶は,もはや「かつての記憶そのものではなくなる」可能性があるというのです。
(取り出した時点でリアルタイムの影響を受けて形状・性質が変わる,みたいなこと…? そんなグズグズなもの,観察できなくない…?)
そう沈んでいくのと同時に,わたしの脳は別の方向へと思考を伸ばし始めます。
過去側に立つ,そのときの自分は「今の自分」。ニュートラルな当時の自分として,過去から今をみることはできない。そして,過去側に立った「今の自分」は,過去の記憶に何かしらの影響を及ぼしうる…なるほど?
実際,このおてがみの冒頭に記した「htmlを学ぼうとしたものの挫折した記憶」は,いま,すでに形を変えて,また脳のどこかに格納されようとしている気配を感じます。
とするならば。
いっそ,これまで自分が得た知識と経験を抱えて,過去から今を積極的に「観測しにいく」ことができるのではないか。それはたとえば,今の自分が,今と過去に新しい関係性を結ぶ・みずからのアイデンティティに新しい物語を与える,とでもいうような。
未来に想いを馳せることには,どこかしら「救い」の要素が漂うのを感じていましたが,こうしてみると,過去から今を観測する行為には「癒し」の可能性が秘められて…
妄想がすぎる気がしてきたので,ほんじつはこのあたりで失礼いたします。
(2022.4.22 西野→市原)