違い探しの出発点
いちはらさん
9月も半ばを過ぎたのにエアコンがフル稼働です。
毎月の電気使用量を折れ線グラフにしてくれるアプリを導入していますが,去年の今頃は「カコン」と下がったはずの線が,ピクリともしません。
データとして目にすると,実に焦るものです。体重をはじめとする各種身体的な「数値」もまた然り。あっ そういえば,ぼちぼち健康診断…ジワリといやな汗を感じます。
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大学院に所属していたある年の冬,窓の外の吹雪を眺めながらPubMedにアクセスしていると,その年に東京の大学からやってきた後輩氏が「ふんぎぃぃぃっっっっっ…!」っと震えながら研究室に入ってきました。
見れば,足元は低ヒールのパンプスで,パンプス用の靴下を履いた足の甲は地肌が見えています。生地に雪がこびりついたコートも,厚みからしてどこかたよりない。
あの…こんなこと聞くのもアレだけど…スパッツとか,ババシャツとか…着てる…?
おそるおそる尋ねるわたしに首を横に振って返した後輩氏の髪から,溶けかけてみぞれ状になった雪がぽたりと落ちます。
「着てません… 」
おぉ,紙装甲。そんな装備で大丈夫か。
続けて少し世間話をしてみると,彼女はもともと四国の生まれ。大学生活を東京で送ることが決まった際には「冬は寒いんだろうなあ」と身構えていたけれど,蓋を開ければまったく大したことはなく拍子抜け。その経験から「東北って関東のちょい先っしょ? いけるいける」…と慢心するに至ったそうです。
「東北,舐めてました…!」
うん,東京との緯度ね,そこそこ差があるからね…。
しかし彼女は,東北の夏について何か言っていたでしょうか。「過ごしやすい」とか「ひとつも暑くない」とか。
どうにも思い出せませんが,気候風土が人の行動様式を形作るんだなあ,とぼんやり思ったこと。そしてずっと東北にいる自分の「当たり前」は,きっと違う場所に住む人たちから違和感をもたれるものなのだろうなと実感したその冬の出来事は,いまもよく覚えています。
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東京に暮らすようになって,さまざまな出身地の人たちと「(相手の出身地)では,こういうときどんな感じなの?」なんて話をする機会が増えました。
一度も訪れたことのない土地の様子や風習と,自分の慣れ親しんだそれを比べるとき,毎回小さな驚きと,少しの相互理解が発生するように思います。
比べる。
ふと気になって,検索窓に "compare 語源" と入力しましたらば
==
compare: com(一緒に・共に) pare(同一の・対等にする)
元来は「同等・対等と見なす、扱う」の意
==
…なんでしょう,たったこれだけの検索結果に,不意打ちをくらったように胸がいっぱいになってしまいました。
"比較する"の言葉・行為には,どことなくネガティブな印象を抱きがちでしたが,実は
「あなたと わたしは いっしょだね」
という前提があると知ったいま,イメージが綺麗に反転しています。
そして,AとBが同一であると認めたうえで
「でも すこし ちがうね」
「どこが どう ちがうだろう」
そうして"違い"を検討する行為が"比較"であるとするならば,わたしたち生き物の根底にある"好奇心"の根っこが,そこに垣間見える気がしませんか。
そんなことを,この往復書簡が始まった頃にいただいた一通のおてがみを再読しながら考えています。
(2023.9.15 西野→市原)