『からくりサーカス』が思いだささる10月
いちはらさん
よい夏休みを過ごされたようでなによりでございました。
そして今朝,radikoで耳にした全国のお天気予報によれば,本日の北海道は雪の可能性もあるとのこと。
冬が,きますか。
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前回いただいたお手紙で
【「思い出す」のバリエーション】と書いていただいて,ハッとしました。そうですね,たしかに脳は使われ方によってアウトプットの種類…いちはらさんの言葉をお借りするなら「ベクトルの向き」が異なっている,ように思えます。
お手紙を拝読してから,「バリエーション」について ぼうっと考えていたのですが,そういえばわたしたちの「思い出す」というスキルは,自発的・意識的に走らせることもできるけれど,どうも「常時発動型」というか…そう,「思いだささる」的なこともあるっぽいな? ということを,ふと目に入った『中動態の世界』の背表紙から連想したりしました(福島県にも多少ですが,「中動態」な方言があります,たぶん)。
そんな「常時発動型」らしきもののひとつとして,ちょっと前から気になっているのが「既視感(デジャブ)」です。
既視感という語は,小学生の頃?に「新たな概念」としてやたらと耳にしましたが,今ではわりと「あるあるな現象」として世間に知られているように,個人的には感じます。
とはいえ,何気ない日常生活のなかで,ふと「あれ? この状況,前にも…?」と”思い出す”というのは,確かになんとも不思議なことですし,めっちゃ研究しづらそうなテーマですよね。発生条件がレア&不確定すぎますし…。
ふうむ,発生条件か…と,ここ数年でわたしに起こった「既視感」について振り返ってみたのですけども。
たとえば前にマエダさんがいちはらさんに宛てたお手紙の
そのあとカリエールが話した駅のホームで4、5冊本を置いて日が暮れるまでずっと読んでる男の話。これ、若い頃いっとき僕もやってました。駅のホームじゃなくて駅前のロータリーのベンチでしたけれど。夏場、大阪から和歌山まで行く普通電車に乗って本を読むためだけに何往復かしたこともありました。和歌山に近づくと車窓から海が見えるので、そのときだけ顔を上げる。その風景、炎天下の日差しにきらきらきらきら瞬く海も、本を読む記憶と込みになっています。)
ここを拝読したとき。
「ある夏の日,きらきらと輝く海を車窓の外に感じながら,電車で本を読んでいたときのこと」を思い出したような気がしました。
そんな体験,したことないのですけどね。
たとえば,敗者を勇気づける歌を聞いたとき。
「全力でトラックを走って,負けて,ぼろぼろと涙をこぼした体操服姿のわたし」が,胸に蘇った気がしました。
そんな熱血エピソード,わたしの過去には実在しないのですけど,ね。
こんなふうに,誰かの体験や何かの作品を読んだり聞いたりしたときに,「対象に自分を重ねる」とか,「心象風景として浮き上がる」というのとは少し違って,勝手に「自分ごと」のフリをして湧き上がってくると同時に,「…これは,誰の記憶だ…?」という,ホラーのような(もしくは額に手を当ててつぶやく厨二的)感覚をともなう既視感…やや「記憶の捏造」にも近い現象は,はて,いったいヒトにとってどんな意味があるんだろう…そのベクトルはいったいどこに向かっているのだ…と,ふわふわと考えています。
あるいは,単なるバグなのかもしれないですけども…。
バグなら原因さがさなきゃかな,まずは記憶の地下茎をたどってみるかと思い立ったわたしの前に,ゲームブックのようにポップアップした「たどる?」「たどらない?」の選択肢を前に,逡巡しながらこのお手紙を書いています。
(2021.10.14 西野→市原)