短編小説 |RUMOUR4/6
SEEKER
長時間の列車の旅を経て、井坂はようやくN県の小さな駅に到着した。駅前には人影がまばらで、異様な静けさが漂っていた。タクシーを探したが、どの車も営業していないようだった。仕方なく、井坂は徒歩で病院を目指すことにした。
山道を登りながら、井坂は周囲の様子に違和感を覚えた。鳥の鳴き声も虫の音も聞こえない。ただ風が木々を揺らす音だけが、不気味に響いていた。時折、遠くから聞こえてくる低い唸り声のような音に、井坂は背筋が凍る思いがした。
「何かがおかしい…」
井坂は呟きながら、足を進めた。やがて病院の建物が見えてきた。しかし、そこには人の気配が全くなかった。
病院の正面玄関に立つと、井坂は愕然とした。病院とは思えないほど草木が生い茂り、扉は開け放たれ、中は薄暗く、異様な静寂に包まれていた。彼は恐る恐る中に足を踏み入れた。
「誰かいませんか?」
井坂の声は空虚に響き、返事はなかった。廊下を進むにつれ、彼の目に奇妙な光景が飛び込んでくる。壁には「山神様いらっしゃい」という文字が無数に刻まれていたのだ。それは鋭利な物で刻まれたようで、いくつかの箇所では壁紙が破れ、生々しい跡が残っていた。
「これは一体…」
井坂は戸惑いながらも、調査を続けた。病室、診察室、ナースステーション…どこも完全に無人だった。患者や医療スタッフの姿は一切見当たらない。まるで、全ての人間が蒸発してしまったかのようだった。
ふと、井坂は足元に何かを感じた。それは一枚の写真だった。拾い上げてみると、そこには笑顔のフサと患者たちの姿があった。しかし、写真の端には奇妙な影が写り込んでいた。人の形をしているようで、しかし人間とは思えない不自然な姿だった。
井坂は背筋が凍るのを感じた。彼は考古学と宗教学を専攻しており、様々な伝承や神話を研究してきた。しかし、目の前で起きている出来事は、彼の知識を遥かに超えていた。
それでも、井坂は諦めなかった。彼は自身の知識を総動員してこの謎に挑むことを決意した。まず、地元の古文書や伝承を調査することにした。
数日間の調査の末、井坂は驚くべき事実を発見した。この地域には「山神様」と呼ばれる存在が古くから伝承されていたのだ。
なんと1700年代の江戸時代中期には、林業や鉱山業の発展により、集落は経済的に繁栄した。この時期、「山神様」を鎮めるための儀式が体系化され、集落の重要な文化的要素となった。同時に、街道の整備により外部との交流が増え、「山神様」の噂が周辺地域にも広がり始めた。
そして、その存在は単なる噂ではなく、この地域の地形や気候と密接に関連していることが分かってきた。
山々に囲まれたこの地域は、古来より奇妙な現象が多発していた。突然の霧の発生、不可解な音、そして時折起こる集団失踪事件。これらは全て「山神様」の仕業だと言い伝えられてきたのだ。
1824年に執筆された書物の文中に「江戸時代末期に差し掛かると、集落は新たな変化に直面した。養蚕業などの新産業が導入される一方で、凶作や年貢の増加により農民の生活は困窮し、「山神様」への信仰はより切実なものとなった。この時期、100年に一度の「お祭り」が行われ、多くの人々が姿を消した」という記録が残されていた。
つまり、これらの伝承から推測できることは、100年前の1824年にも「山神様」が人々を山中へ連れ去ったという噂があり、今回の噂との関連性が強く示唆されたということだ。そして、この事態の重大さを悟った。
「まさか…」
井坂は震える手で暦を確認した。確かに、今年は1924年。前回の集団失踪事件から丁度100年が経っていた。
この発見により、状況はより複雑になった。井坂は、この「山神様」なるものが本当に存在するのか、それとも何者かが古い伝承を利用して人々を惑わせているのか、判断がつかなくなった。
しかし、一つだけ確かなことがあった。フサを含む多くの人々が行方不明になっているという事実だ。この事件を止めるためには、この謎を解明しなければならない。
井坂は再び病院を訪れることにした。今度は、より詳細に調査するつもりだった。病院に着くと、前回と同じく人の気配はなかった。しかし、今回は異変に気づいた。壁に刻まれた「山神様いらっしゃい」の文字が、以前よりも増えているように見えたのだ。
「誰かがここに来ている…?」
井坂は慎重に歩を進めた。廊下の突き当たりに、かすかな光が見えた。それは院長室からもれる明かりだった。彼は緊張しながらドアノブに手をかけた。
ゆっくりとドアを開けると、そこには…
何もなかった。ただ、机の上に一冊の古い日記が置かれていた。井坂はそれを手に取り、ページをめくった。そこには、1824年の出来事が詳細に記されていた。
「文政7年、山神様の祭りが始まった。人々が次々と姿を消している。私たちは逃げ延びることができるだろうか…」
井坂は息を呑んだ。この日記は、100年前の集団失踪事件の真相を知る重要な手がかりかもしれない。そして、同時に現在の状況と酷似していることに、彼は恐怖を感じた。
突然、遠くから歌声が聞こえてきた。
「山の神様 いらっしゃい
みんなで 行きましょう
百年に一度の お祭りよ
誰も帰れない お祭りよ」
その歌声は、どこか懐かしいような、しかし不気味な響きを持っていた。井坂は思わず耳をふさいだ。
病院の廊下に立つ井坂の周りを、不気味な霧が少しずつ包み始めていた。その霧の中から、何かが彼を見つめているような気配がした。井坂は背筋が凍るのを感じながら、次の一歩を踏み出そうとしていた。