短編小説 |RUMOUR1/6
LURK
1924年4月1日、桜の花びらが舞う中、看護婦の百田フサ(29歳)はN県の山奥にある病院に向かっていた。父の勧めで疎開のためにこの地に赴任することになったのだ。都会育ちのフサにとって、この決断は不安と期待が入り混じる複雑なものだった。
病院に到着すると、フサは呼吸器内科の3病棟に配属されることを告げられた。白衣に着替え、病棟を歩き始めると、静かな雰囲気に安堵感を覚えた。都会の喧騒から離れ、のんびりとした環境で看護の仕事に専念できると思ったのだ。
最初のうち、フサは静かな田舎の病院生活に満足していた。患者たちも穏やかで、同僚たちも親切だった。しかし、その平穏は長くは続かなかった。
ある夜、小児喘息で入院してきた7歳の氷川ヨシノの様子がおかしいことに気づく。夜勤中の1時頃、ヨシノの病室を巡回で訪れたフサは、突然目を覚ましたヨシノから「あなたはよそ者だね、随分と美味そうだ」と言われ、背筋が凍る思いをする。
フサは一瞬、自分の耳を疑った。7歳の子供がそんな不気味な言葉を発するはずがない。しかし、ヨシノの目は確かにフサを見つめており、その瞳には子供らしからぬ何かが宿っていた。
「ヨシノちゃん、大丈夫?悪い夢でも見たの?」とフサが声をかけると、ヨシノは突然、理解不能な言葉を呟き始めた。それは人間の言葉とは思えない、まるで風が木々を揺らす音のような不思議な響きだった。
フサは急いで同僚のナースを呼び、ヨシノの様子を報告した。しかし、同僚は「山の子はみんなそうよ。慣れるわ」と言うだけで、特に気にする様子もなかった。
その日以降、フサは病院内で奇妙な出来事に遭遇することが増えていった。患者の死に際に家族が「どうか、山神様の元へ」とつぶやく光景を目にし、この地域特有の不可解な雰囲気に違和感を覚え始める。
同時に、病院内で「山神様いらっしゃい」という奇妙な言葉が広がり始めた。最初は一部の患者の間で囁かれていた言葉が、だんだん多くの患者の間でも交わされるようになっていった。
フサは不安を感じながらも、看護師としての日々を送り続けた。夜になると奇妙な音が聞こえてくるようになった。それは風の音のようでもあり、誰かの囁きのようでもあった。「来たれ、我が子よ」という言葉が、フサの耳に届いているような気がした。
毎晩のように、フサは病院の窓から見える山々を見つめていた。そして、ある夜、彼女は信じられない光景を目の当たりにする。山々が動き出し、巨大な人の形に変化した山の輪郭が、病院に向かって歩み寄ってくるように見えたのだ。
恐怖に震えるフサだったが、同時に不思議な安堵感も覚えた。まるで、長い間探していた何かを見つけたかのような感覚だった。フサは恐怖と安心感の入り交じる不思議な感覚であったのだ。
ある時から病院の廊下を歩く患者たちの間で、新たな噂が囁かれ始めた。「新しい仲間が来たらしい」「山神様が喜んでおられる」。フサはこれらの噂を耳にするたびに、言い知れぬ不安に襲われた。しかし、彼女にできることは何一つなく、その噂に怯え、自分の来る運命の日を待つのみであったのだ。