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短編小説 |心室細動1/6
プロローグ:暗闇の決意
雨が静かに降り続く夜、ユスフ・コーエンの手が震えた。爆弾のスイッチを握る指に力が入る。長年の研究で培った外科医としての繊細な技術が、今や破壊の道具となっていた。息子ダニエルの笑顔が脳裏をよぎる。「正義のためだ」と自分に言い聞かせる。社会の腐敗、政府の闇。それらへの怒りが彼を突き動かしていた。
ユスフは深く息を吐き、決意を固める。今宵、彼の人生は大きく変わろうとしていた。正義か、狂気か。その境界線上で、ユスフは運命の扉を開こうとしていた。
窓の外では、街灯が雨に濡れて揺らめいていた。その光が、ユスフの手元にある爆弾製造キットを不気味に照らし出す。心臓手術で使用する精密な器具たちが、今は爆弾の部品として並べられていた。皮肉にも、命を救うはずの道具が今や命を奪う凶器へと姿を変えていた。
ユスフは目を閉じ、息子ダニエルの笑顔を思い出す。明るく朗らかだった息子の笑顔が、今は悲しみに歪んでいるように感じられた。「お前の仇は必ず討つ」とユスフは心の中でつぶやく。息子の死から1年。その間、ユスフの心は怒りと悲しみで満たされ続けていた。
彼の頭の中では、過去の記憶が走馬灯のように駆け巡る。医学部に入学した日、初めて執刀した日、息子の誕生日、そして...息子の死を知らされた瞬間。あの日から、ユスフの世界は一変した。
優秀な心臓外科医だったユスフは、革新的な手術技術で世界的に名を馳せていた。彼が開発した「コーエン法」と呼ばれる心臓手術は、これまで助からなかった多くの患者に希望をもたらしていた。その技術は、心臓の弁膜症や先天性心疾患などの複雑な症例に対して、より安全で効果的なアプローチを可能にした。医学界では、ユスフの名前は尊敬の念とともに語られていた。
しかし今、その同じ手が爆弾を作り上げようとしていた。医療の知識と技術が、破壊の道具へと変貌を遂げていく。ユスフの心の中で、医師としての誓いと復讐者としての決意が激しく衝突していた。
雨音が激しさを増す中、ユスフは作業を続ける。爆弾の構造は複雑だが、彼の器用な指はそれを正確に組み立てていく。心臓の繊細な組織を扱うのと同じ慎重さで、彼は爆発物を取り扱う。その姿は、まるで手術室にいるかのようだった。
しかし、彼の心の中は嵐のように荒れ狂っていた。「これが正しいことなのか」という疑問が、絶えず頭をよぎる。しかし、その度に息子の死体を見た時の光景が蘇り、怒りが再び湧き上がる。社会の腐敗、政治の闇、そして息子の命を奪った者たちへの憎しみ。それらが彼を突き動かし、この狂気じみた計画へと駆り立てていた。
ユスフは、息子の死の真相を追う中で、徐々に社会の闇に気づき始めていた。表向きは民主主義を謳う政府の裏で、権力者たちが違法な取引を行っていたのだ。そして、その証拠を偶然にも掴んでしまった息子は、口封じのために殺されたのだった。
この事実を知った時、ユスフの中で何かが壊れた。社会正義を信じ、人々の命を救うことに人生を捧げてきた彼の信念が、一瞬にして崩れ去ったのだ。そして、その代わりに芽生えたのが、復讐心だった。
爆弾の製作を進めながら、ユスフは自分の計画を反芻する。彼のテロ計画は、医学的知識と技術を駆使した前代未聞のものだった。標的となる政治家たちの体内に、微小な爆発物を埋め込むのだ。それは通常の検査では発見できないほど小さく、しかし致命的な威力を持つものだった。
この計画には、ユスフの医学的知識が存分に活かされていた。人体の構造を熟知しているからこそ、最小限の爆発物で最大の効果を得られる位置を特定できたのだ。さらに、彼の外科医としての技術が、その埋め込みを可能にしていた。
しかし、この計画には大きな矛盾があった。命を救うはずの医師が、命を奪おうとしているのだ。ユスフは、この矛盾に苦しんでいた。彼の心の中では、医師としての良心と復讐者としての怒りが激しく対立していた。
雨は一向に止む気配を見せない。その音が、ユスフの心の葛藤を更に増幅させているようだった。彼は作業の手を止め、窓の外を見つめる。街の明かりが雨に濡れて揺らめく様子は、彼の心の動揺を映し出しているかのようだった。
ふと、ユスフは自分の手を見つめた。その手は、数え切れないほどの命を救ってきた。複雑な心臓手術を成功させ、絶望的と思われた患者たちに希望をもたらしてきた手だ。しかし今、その同じ手が爆弾を作り上げようとしている。この矛盾に、ユスフは激しい自己嫌悪を感じた。
しかし、すぐに息子の笑顔が脳裏をよぎる。その笑顔が、ユスフの決意を再び固めさせる。「正義のためだ」と、彼は再び自分に言い聞かせる。社会の腐敗を暴き、息子の仇を討つこと。それが、今の彼にとっての正義だった。
ユスフは再び爆弾の製作に取り掛かる。その動きは機械的で、まるで手術をしているかのようだった。しかし、その目には激しい感情の炎が燃えていた。怒り、悲しみ、そして決意。それらが入り混じり、彼を突き動かしていた。
作業を進めながら、ユスフは自分の変貌ぶりに驚いていた。かつては慈愛に満ちた医師だった自分が、今や冷酷なテロリストへと変わっていく。その変化は、彼自身にとっても信じがたいものだった。
しかし、その変化は一夜にして起こったわけではない。息子の死後、彼は徐々に変化していった。最初は悲しみに打ちひしがれていたが、やがてそれは怒りへと変わっていった。そして、真相を追及する中で、社会の闇を知ることとなる。その過程で、彼の中の正義感が歪んでいったのだ。
爆弾の完成が近づくにつれ、ユスフの心の中の葛藤はますます激しくなっていった。彼は、自分の行動が正しいのかどうか、何度も自問自答を繰り返す。しかし、その度に息子の死の光景が蘇り、彼の決意を固めさせるのだった。
雨はいつしか小降りになっていた。ユスフは完成した爆弾を見つめる。それは、彼の医学的知識と技術の結晶であると同時に、彼の怒りと復讐心の具現化でもあった。
ユスフは深く息を吐き、決意を固める。今宵、彼の人生は大きく変わろうとしていた。正義か、狂気か。その境界線上で、ユスフは運命の扉を開こうとしていた。
しかし、その時、突然の電話の呼び出し音が静寂を破った。病院からの緊急呼び出しだった。「コーエン先生、緊急手術です。あなたしかできない手術なんです」という看護師の切迫した声が、受話器から聞こえてきた。
ユスフは一瞬、戸惑いを見せる。テロ計画を実行すべきか、それとも患者を救うべきか。彼の心に、新たな葛藤が生まれた。手術着を着る医師の姿と、爆弾を抱えるテロリストの姿。二つの人格が、彼の中で激しく対立し始めた。
雨上がりの夜空に、一筋の月明かりが差し込む。その光は、ユスフの葛藤する姿を静かに照らし出していた。彼はどちらの道を選ぶのか。命を救う道か、それとも破壊の道か。その選択が、彼の運命を、そして多くの人々の運命を決定づけることになるのだった。