マッチョラブコメディ 『ファイト・クラブ』デヴィッド・フィンチャー(映画 1999)
主人公(名前はない)は、偽物である。
肝心なことはその一点で、地下ボクシング・ジムの存在ではないし、テロ計画でもない。
主人公は、病に苦しむ人々の自助グループに日替わりで参加する。そこで見知らぬ人たちの間で泣くことによって、カタルシスを得る。しかし実は、彼はなんの病気にも冒されていない。つまり、偽物だった。
それは、ファイト・クラブにおいても同じだ。
快適なコンドミニアムをこだわりの品で埋め尽くす、ホワイトカラーの主人公。ある時、その生活に疑問を持ち、殴り合うことに快感を覚えるようになる。次第に組織化されていくファイト・クラブに集うのは、社会の底辺の男たちだ。だが、クラブの創始者である主人公は、底辺の存在ではない。やはり、偽物だ。
彼は他の男たちほど無能ではない。しかし、大恐慌も世界大戦もない、歴史のはざまに生まれたために、その能力は活かされず、何者にもなれない。生きている実感を得るために、「怒り」を手に入れようとする。
自助グループ巡りは、映画や小説を消費することの比喩だ。
つまり、この映画を見る人は皆、主人公と同じ立場だ。億万長者やスーパースターにはなれない、ただの消費者。ファイト・クラブにおけるホワイトカラー。映画を見て感動の涙を流し、自分を騙している。そのことをこの映画は暴いている。
あるいは、この物語を主人公とマーラのラブストーリーとして見ることもできる。その場合、筋書きは至って単純だ。
気になる女性が現れたが、自信がないので理想の人物を演じる。しかし、嘘は破綻する。その女性の前で自分の真の姿をさらし、主人公は彼女とともに新たな世界へと踏み出す。
よくあるラブコメディではないか。実際、主人公が自分自身を殴っている様子などは滑稽だ。
一見、ラブストーリーには見えない作品だが、マーラがキーパーソンであることは明らかだ。冒頭で、「すべてマーラ・シンガーが原因だ」と主人公は独白する。自助グループ巡りがファイト・クラブにすり替わったきっかけは、彼女との出会いだった。
ラストシーンで、崩壊する街を眺めながら、主人公はマーラに向かって「これからはすべてよくなる」と言う。そして、2人は初々しく手を取り合う。まさにボーイミーツガールな構図だ。ここから始まるのだ。
そんな甘いストーリーということなら、マーラという女性に意思というものが感じられず、寒気がするほど客体化・対象化されていることも仕方ないと思える。
ところで、原作小説における表現だろうか、この映画には印象的なフレーズが多い。私は、”IKEA Boy”というのが妙に心に残った。そのような人に実際に会ったことがあるからかもしれない。メキシコにいた時だ。彼はあらゆる面で豊かで快適な家に住んでおり、一人息子の部屋はIKEAの家具で統一されていた。IKEA Boyの再生産現場か。
・食の場面
クラムチャウダー。マーラと入った店で、主人公が「”クリーンな”クラムチャウダーはあるか」と尋ねる。ウェイターは、「それなら、チャウダーはキャンセルしてください」と応じる。
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