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メールからSNSへ:孤独感の変遷 ケイティ・ペリーと宇多田ヒカル

好きなものの共通点を見つけるのはうれしい。

在宅勤務中、書類の山を前にして調子が乗らない時は、ケイティ・ペリーを聞く。
特に好きな曲の1つが、“Witness”(2017)。

If I lost it all today, would you stay?
Could my love be enough to stimulate?
If shit hit the fan, grenades got thrown
Would you still show, oh?
...
We're all just looking for connection
Yeah, we all want to be seen
I'm looking for someone who speaks my language
Someone to ride this ride with me
Can I get a witness?  Will you be my witness? 
...
You can scroll through anything, you've got the codes
Nothing to hide
It's all in their eyes

SNSの時代の孤独を歌っている。もちろん、そんな意味付けで捉えきれる歌ではないが、そう解釈できると思う。

改めて歌詞をじっくり聞いてみて、この曲は『Deep River』(2002)の頃の宇多田ヒカルを思わせるところがあると気づいた。
共通点は、孤独感。

『Deep River』を聞くと、どの曲からもヒリつくような孤独を感じる。それも、誰かと一緒にいるのに、かえって募る切なさ。
"Witness"の"I'm looking for someone who speaks my language(私と同じ言葉を話す誰かを探してる)"という歌詞は、この曲とアルバム『Deep River』に通底する性質を表してしている。

『Deep River』から引用すると、たとえば、"Tokyo Nights"。

時間の限り集まってはバカ騒ぎ 
あなたをここへ引き止めるのは誰?
...
君かもしれない もうしばらく側にいてください
...
隠しておきたい 
赤ちゃんみたいに素直な気持ちは 
ビルの隙間に

でも、"Witness"から真っ先に連想したのは、"Letters"。

これは、恋人とのメールのやり取りについての歌だと私は思う。

ああ この海辺に残されていたのは
いつも置き手紙
ああ 夢の中でも 電話越しでも
ああ 声を聞きたいよ
ああ 言葉交わすのが苦手な君は
いつも置き手紙
...
ああ この窓辺に飾られていたのは
いつも置き手紙
ああ 少しだけでも シャツの上でも
ああ 君に触れたいよ
ああ 憶えている最後の一行は 「必ず帰るよ」

「窓辺」は携帯電話の画面、「置き手紙」はメール。
歌われているのは、メールを待ち望んで、つかみきれない相手の気持ちに振り回されるもどかしさではないだろうか。「君」は存在するのに、触れることができず、苦しくなる。

2002年の宇多田ヒカルが同時代から感じとったのは、メールによって増す孤独だった。
それから15年経って、2017年のケイティ・ペリーが体現したのは、SNSが生む不安だった。

変化したところは、メールが送り手と受け手の間で閉じている(「私」と「君」だけの世界)のに対し、SNSは多数の網の目のような関係に開かれていること。"we all want to be seen(みんな見られたがっている)"なのだ。

ただ、変わらないのは、「君かもしれない」特別な存在、あるいは"someone who speaks my language" 、を求める切実な心情だと思う。

さらに15年後には、どんな形の孤独や不安の表現が現れるだろう。

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