「お神さん」(太田靖久著『新潮』2011年10月号)に2022年に出会った話。そして「神は細部に(こそ)宿る」。
本文は単なる一個人としての感想であるが、同時に書かずにいられないというか忘れたくないので日記代わりに書かせていただくことをお許し願いたい。自分はひとりの作家を掘り下げて読むタイプなのと、知らずに読まなかった可能性があると思ってここに記しておく。
在宅勤務の日だった。上司からの不穏なメールが続いて、やっぱ仕事向いてないやと落ち込みながら、かたわらにあった『お神さん』を読むともなく読み出してしまう、昼休みに。
そして昼休みと歯医者の待合室で、いっきに読み耽った。
今日読まれるために、この小説をしばらく「積読」していたのではないかと思うくらいに(国会図書館より2022年4月ごろ入手)。
感想だの書評だのを書くのは、立て続けではなく、もっと時間を空けてからにしようと思っていたのに、書いてしまうのは、いろいろと驚かされたからぜひと思った次第である。太田氏の小説にはいつも度肝を抜かれることが多いのだが、この『お神さん』は2011年に『ののの』新人賞受賞後第一作として書かれている。成人年齢が18歳に引き下げられたとあって、2022年を彷彿とさせるので度肝を抜かれる。そしてベーシックインカムの話が出てくるが、こうなってくると数年後には実現してしまうのでは、と恐ろしくなる。
驚くのはこれだけではない、この中に描かれる出来事はさらに続き、なんとコウモリを発生源とするウイルスが世界に蔓延しだし、デパートの入り口にまで消毒液が置かれるとか、強いて言えば、新型インフルエンザ(2009年)やSARS(2002年)がいっとき話題になったとはいえ、そんなもんじゃなく、コロナ予言の書といっても過言ではない。
しかし『お神さん』の真髄はそこにあるのではない。上記に書いたことはあくまでも、この小説世界の「背景」である。私はこの作品を国会図書館遠隔サービスで取り寄せたが、群像に掲載される創作合評も参考に取り寄せている。そこで、この小説は、実のところゾンビ小説だとも評されているが、一読者でなんの権威もなくて浅学な私が断言するのもどうかと思うがそれはちょっと違うのではと思った。もっともゾンビ小説というジャンルに詳しくないので、どちらがいいとか悪いとかそういう意味では全くないので、ゾンビ小説に対しての否定的意見ではないのは強調したい。もちろん私が勝手にそう感じただけで、そういう側面があるという解釈ももちろんありだが、創作合評で、そう断定されていることに疑問に感じたのは事実である。
というのも、考えてほしいのは、これが2011年に書かれている(発表されている)こと、2010年に『ののの』が世に出たときは、まだあの大震災も津波も起こっていなかった。しかしその後2011年3月を境に世界は一変した。そのときに書かれた小説である(それ以前から構想や完成されている可能性もあるが、発表にあたって2011年であることはものすごく考慮されているだろうと私は思う)。これはこの世にもっと生きていけるはずだった死者たちを悼む・思う・想像してかんがえる物語だと私は感じている。もちろん簡単にそんなこと一読者が推測すること自体、テーマが重すぎて躊躇われるが、生者と死者の境目がなくなるような、この混沌たる世界は、「人のようなもの」が受け取るありとあらゆる死者と生者の声、2011年3月を過ぎて小説を書くことがどれほど困難なことであったか、それを思うと、この作品は『ののの』に引き続き、小説に対する絶望と希望・希望と絶望の混交体として、存在し、読者の手にひとつの希望と絶望が混ざり合ったものとして、届けられていると、私はひしひしと感じたし、読み返して何度も向き合いたいと思った次第である。
この小説は細部の魅力にもあふれていて、高校生のふたりの話は映画のようで私はふたりのやりとりをずっと観ていたいと思ったり、p.123から124にかけての窓の外を眺めるシーンが大好きである。神はまさに細部に宿るのである。
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