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昼休みに太田靖久「ひひひ」を読んだ(2021年8月号「すばる」掲載作品を読んで)

昼休みに読んだ「ひひひ」は短編ながらも二十年の時が流れている。

タイトルや内容的にも「ののの」のスピンオフ的作品というか「ののの」の世界を彷彿とさせる箇所があるのだが、「ののの」を仮に読んでいなくても、この「ひひひ」にはひとつの世界が構築されているし、一方で「ののの」の世界へもいざなってくれる。

太田靖久氏が2010年に『ののの』で新潮新人賞でデビューした時のインタビューのタイトルは「僕の小説を読まない人のために」とあって、その中にけっして代弁者ではなく、後押しされている感じではないが、ギリギリのところで「今現在、圧倒的な現実や生活に押しつぶされ、自分の感情を探ったり、言葉を紡ぐ時間や体力がない人」のイメージをもって書いている、というような言葉がある。

 一方で小説を書いている人はけっこういるんだと私は思っているし私もその一人だが、私の場合は圧倒的な現実や生活、というより、それも大いにあるのだが、圧倒的にこれまで書かれてきた物語や小説に押しつぶされて、もう自分の感情が見えないし、小説を読むことすらできない、太田氏の言葉になぞらえていえば、そういう気持ちになることがしばしばあった。

安易に世代でくくるようなことはしたくはないが、とくに70~80年代生まれは、幼いころに、このような閉塞感のなかで大人になるとは思っても見なかったのではないだろうか。

「ひひひ」の主人公のように大学時代は普通の生活どころか普通じゃない尖がった文化に憧れたりして定職につかないままでもなんとかなりそうだったが、いまや「普通の生活」すら難しい。サラリーマンになるなんて夢の無いことをといわれてもおかしくない幼少期から、いまや、サラリーマンになるために、大学に入ったとたんにインターンシップだの就活の心得だのが押し寄せてくる。完全に70~80年代生まれは、時代の波から取り残されている。

「ひひひ」の出だしはさりげないが、篠崎という男にかけられた呪いは読者にもかけられて、いったい彼女がどうなってしまうのか目が離せなくなる。二十歳の私と四十歳の私が行き来する。

先日、高山羽根子氏と町屋良平氏の対談の司会をされていた太田靖久氏が、高山羽根子氏と同じ75年生まれであると話していて、さらっと「泥水を飲んできた世代」と言ったのが印象に残った。私もまた72年生まれではあるが、自分も含めて周囲に同じような人がたくさんいるからだ。「ひひひ」の「私」もまた「泥水を飲んだり吐き出したり」しながら二十年を過ごしてきた。その二十年にも「奇跡のような日々」や「わずかな幸運」があり、「全身がしびれるような感動」に突然襲われたりもする。

「私」はその感動に襲われながらも、その感動がどこから来てどこに行くのかわからないまま、その場限りの派遣仕事に就く。

このまま書いていくと単なる内容紹介になってしまうのでやめておくが、二十歳の私と四十歳の私があるシーンに向かって、行ったりきたりする様は是非もっと読まれてほしいと切に願う。2021年という人々が集うのを許されない世界で描かれた、今だからこそ書かれて読まれるべき小説だと私は思った。



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