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二杯の珈琲 【プロローグ】

著=きほちゃ(N高7期・通学コース)

プロローグ シェアトの声

店があるのは、街から少し離れた路地の裏。

空が光を落とすと、辺りを照らす街灯が道を示すようになる。

今日も道を照らす明かりを反射した、白雪を踏みしめて扉を開けた。

ドアノブが冷たいせいか、手がキリっと痛んだ。何度触っても慣れないが、この痛さを感じられるのも今日で最後だ。

店内に足を踏み入れると、途端にコーヒーの香ばしい香りと客の声が耳に入ってくる。

奥には客を待っているかのような、ずっしりとした本棚が客を出迎える。

私は寒気が店内に入らないように、素早く扉をしめた。

店内を見ようと顔をあげると、若く顔の整った店員がにこやかな笑顔で立っていた。

作業の途中なのか、ふきんを片手に持ったまま軽く会釈をした。

「いらっしゃいませ。喫茶店シェアトへようこそ。」

片割れのネックレスが店員の胸元で揺れている。組み合わせればハートにでもなるのだろう。

「2名です、1名は後から。」

「かしこまりました。」

そう言うと、店員は早足でコーヒーカップを厨房へ運んで行った。



私は座る席を選ぼうと店内を見渡した。少し考えた末、いつもと同じカウンターに背を向ける席を選んだ。

荷物を置いた後、すぐに立ち上がって店内の本棚に向かう。

本棚の上の方を見ると、色が燻んだ夫婦の写真が飾ってある。男の方はこの店のマスターだ。物静かで、滅多に会話をしない。

この喫茶店がオープンして30年。マスターはすっかり白髪になってしまったが、コーヒーの味と、左手の薬指に着けた結婚指輪だけは変わっていない。

目線を下げた先の本棚には、よれが目立つ絵本に、今ではもう役に立たなそうな旧課程の参考書、コーヒーの染みた文庫本までもが並んでいる。

どれも読んだ跡が残っており、見る度に懐かしさが蘇ってくる。

私はいつものように読み慣れた雑誌を手に取った。古い雑誌だから、これが読めるのも今日が最後なのだろう。

席に戻ってきて注文しようとメニューを開く。

サンドイッチ、ミルフィーユ、ショートケーキ、モンブラン……。

今日こそいつもと違うものを注文しようと思ったが、どれも美味しそうで決められない。

結局、今日もコーヒーを頼むことにした。

コーヒーを飲むのも好きだが、待っているこの時間も好きだ。

コーヒーカップを囲んで何気ない会話を交わす人々を観察する時間。

想い人の話、締め切り日の話、将来の話……。

思い思いに話を広げる人々は、顔だけでは分からない深い感情を抱いているような気がする。

「お待たせいたしました。」

運ばれてきた二杯のコーヒーには、白くて触れられない魔法がかかっていた。

飲んで、と言わんばかりの香りが、口元へと誘っている。

見慣れた文字の並べられた雑誌を見ながら、コーヒーに口をつける。

窓から差し込む黄色い街灯の光が、より一層味わいを深めている。

コーヒーを飲むたびに、実家にあったコーヒーミルを思い出す。

機械、と言うほど大きいわけでもないけれど、上に付いているハンドルを回すだけで砕けた豆が出てきたものだから、小さい頃はとても驚いた記憶がある。

ガリガリと豆を砕く音さえも心地良さを感じながら、最後の一口を飲み終えた。

もう一杯のコーヒーを見ると、冷めてしまった香りだけが後を引いている。

カウンターの奥には、コーヒーミルを回す白髪の男がいる。薬指の指輪がキラッと輝いている。

貴方は今日も、魔法が解けてしまう前にもう一杯のコーヒーを飲むことはなかった。

雑誌を閉じて元の場所へ返しに行くと、本棚の大半が新しい本に入れ替わっていた。

いつも同じ雑誌に執着していた私にとっては、この時間を脅かす事件でもある。だから、今までであれば怖いはずだった。

しかし、今日でこの喫茶店に足を運ぶのも最後だ。私には、もう関係のないことなのだろう。

胸に降りかかる哀愁を振り払い、席に戻って荷物を持った。

「ありがとうございました。」

会計を済ませると、店員は入店した時と同じ顔でそう言った。

私はドアノブに手を掛けたが、込み上げてくる気持ちにブレーキをきかせることはできなかった。

途端に振り返り、カウンターの向こう側の白髪の男に向かって言った。

「美味しかったです。」

案の定返事はなく、胸が締め付けられるのは私だけだった。

貴方の隣にいた頃とは姿が変わってしまっているのだから、気づかれなくて当たり前なのだ。

だから、仕方ない。

店を出ようとしたとき、心に声が刺さった。

「あの。」

振り返ると、カウンター奥の白髪の男がこちらを見ていた。薬指に着けた指輪が光を反射させる。

何度も聴いたけれど、何度でも聴いていたい声。頭の中で何度も反響する。

「……またお越しくださいませ。」

震わせた精一杯の優しい声に、胸が締め付けられた。

「はい。」

目の前が水でぼやけて見えなくなった。腕で乱暴に拭っているせいか、目が少し痛い。

魔法の解けた珈琲の水面が、静かに揺れていた。


※プロローグ完


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