関西演劇祭2022、感想をたくさん書きました。
11月12日~20日の1週間、
大阪城公園内にある劇場、COOL JAPAN PARK「SSホール」にて、
4年目の開催となる『関西演劇祭』が開催されました。
関西だけでなく全国から若く個性的な10劇団が集まり、
毎日、それぞれの演目を上演する演劇祭です。
私・西田シャトナーは、
スーパーバイザーとして各劇団の劇場仕込みから上演まで劇場に滞在し、
各作品の全ゲネプロ、全上演、合計40ステージを観劇させていただきました。
作家・演出家・劇団経験者としての視点から各劇団各作品を見て、
表には見えない頑張りや作品に込められた想いなどについて、
審査員控室で審査員の皆さんと語りあうためです。
そんなわけで、芝居漬けの幸福な2週間をすごさせていただきました。
演劇祭に舞台裏で参加しながら、
それぞれの作品についての感想を毎日Twitterで書きました。
それをここに記録として残させていただきます。
初日を迎えた順番に、各作品の感想を並べてあります。
ちょっと長いですけれども。
お暇な時に読んで楽しんでいただけましたら幸いです。
では、RE:MAKEの作品の感想から、どうぞ。
★RE:MAKE『COLORFUL』1st目
演劇祭のスタート上演。ああ全力が気持ちいい。
こんなにも全員が100%全力で、走って飛んで言葉を言う、そんな芝居を作るのは簡単ではないのです。
「全力でやろう」と言ってもなかなか意外に、思うようには出来ないものなのです。それがやれてて、素晴らしい。
一番若くて、そして中心の役を演じる11歳の役者3人がホントに良くて、最初から感動しました。
どんなシーンでも、この3人が常に良い。年上の俳優たちがこの3人を押し上げているのか、それともこの3人が皆をひっぱっているのか、メンバーでない私にはわからないのですけれど。若い俳優が100%の力を出している姿は、幸福な我々の未来そのものです。
この作品に登場する「あの世」は、もしかしたら
主人公が一瞬の夢の中で旅した心の世界なのかもしれません。
自分の内部なのかもしれません。
夢の中は色がなく、現実の世界は色があるともいいますし。
もし実際に天使と悪魔がいるのなら、
この作品のように実は結構仲が良く、お互いを補い合っているんだろうなと思いました。
「光」と「影」はきっと仲が良いもので、
我々人間が勝手にそれを相反するものと思い込んでるものなのでしょう。
私達の心の中の光と影も、仲がよかったらいいですね。
きっとそうだったらいいですね。
★RE:MAKE『COLORFUL』最終st.
若い出演者たちが力の限り演じる素直な演目。
素直さ以上の何かが我々の胸を打ちます。
今回、他の劇団が出演できなくなったステージの代打を
急遽引き受けたりして、
通常よりも1回多い全4ステージ上演を行ったチームなのです。
どのステージの合間も全力でリハーサルを繰り返し、
演劇祭を熱く熱く盛り上げ、駆け抜けてきたのでした。
(初日をすぎてもリハーサルを繰り返す彼らに
付き合い続けてくださった劇場スタッフにも頭が下がります)
その彼らの最終ステージは、いつもと同じように熱く。
だけど何か今目の前の芝居を突破するような切実さがありました。
虚構と現実の壁を突破するような、
のっぴきならない切実さです。
終盤、全員で歌い踊るナンバーの歌詞、
「過ぎた時間は戻らない だから今を大事に生きよう 後悔しないように」
を歌う時、
出演者の皆は、まさに今、この演劇祭での上演が終わることを
胸に思い浮かべていたのかもしれません。
天使長の
「さあ、時間やで」「お前は人間界に戻るんや」
という台詞は、
演劇祭の終わりと、
それが終わって劇場の外に戻る我々皆への言葉にも聞こえました。
またとない、良い時間を過ごしました。
★TAAC『GOOD BOYS』1st目
演出のタカイさんは「もっともっと良いものにできる」と言っていましたが、「もっと」も何も、ゲネプロからすでに鑑賞者の感受性メーターを振り切ってる凄い出来栄え。
演出プランの凄まじさについ目を奪われますが、
俳優たちの演技がまた隅々まで充実していて、
それも堪能できます。
タカイさんは幕切れで「双子はそれぞれ離れて、孤独という辛さにも耐える道をえらぶ」と言い、
それは凄い結末だと心底感心しました。
それを聞くまで私が思っていたのは、
実は双子はそもそも一人であり、あまりの過酷な生活から自分を二人にわけた幻の中、自分で自分を助けていたという、そういう解釈だったのです。
見たいものを、見ようとするものを見るという宣言から始まる物語ですから。
そして、たとえその私の解釈にそって読み解いても、
最後には二人は双子であることをやめて一人に戻り、
一人で過酷さと闘ってゆくという結末になります。
比喩的にタカイさんの意図に吸収されるのでしょう。
私は登場人物のおばあちゃんがとてもすきでした。みんな、辛いことと闘ってるんですね。
舞台美術が回転する様が、素直にフィジカルに、とても心地よい。
あの双子たちは、どこかにいる双子ではなく、自分の人生と戦う私達自信だともいえます。
自分の中の双子たちに、温かくて甘いココアを飲ませてあげたい。
★TAAC『GOOD BOYS』2st目
改めて思ったんですが、
この作品、アートワークと演出のキレが良すぎて、
難解な作品かな? 観客を突き放す作品かな?
…って思いそうになるけれど、全然そんなことない。
見やすいしわかりやすいし、人情たっぷりなんですよね。
それが凄い。
恐ろしいし、哲学的だし、いくらでも深読みさせてくれる。
なのに、優しくて愛情豊かで、身近な感情で描かれて、深読みしなくても大丈夫。
俳優も演出も、ちゃんと観客の手を離さずに連れていってくれる。
良いですよね。
ちなみに、2回目ティーチインで発言したんですが、
私は中央の扉のある壁は、
扉の本質を描いているなあと思いました。
扉をくぐって、何かの中に入ってみれば、そこはやはりひとつの世界ですから。
だから扉の両側には、同じくらい広い世界が広がっているんだなと思いました。
扉の両側には、僕らの住む宇宙と、僕らの心の中の宇宙があるのかもしれません。
それはどちらも同じくらい、劇場全体くらい広い。
…ってことをティーチインで私が言うと、
タカイさんは頷きもせず否定もせず、「ふふふ」みたいな顔をしてましたね。
★TAAC『GOOD BOYS』最終st.
これほど突き詰めて磨き抜いた演劇を、
複数劇団が同一劇場に集う演劇祭という
仕込み時間の短い現場で上演した力量がまず凄い。
その妥協のなさを私も上演者として見習いたいです。
極限の苦境と苦痛、
その中でも絆と優しさと希望を持ち続けること。
この1点を磨き抜くために、
希望については寡黙に、苦境については饒舌に描き続けます。
これ以上ない過酷で苛烈な悲しさの中でも、
果たして我々は優しさや愛を感じることができるのか?
この芝居は、その答えを知るための
実験と冒険そのものです。
とても難しい、超高度の試みなのです。
どんなに「それは可能だ」という信念があっても、
演劇は劇場で上演するまで答えはわからないですから、
だからTAACのメンバーは、
あれほどの技量があっても、
それでも試みが失敗するかもしれない不安と戦い続けながら
稽古場の時間を過ごし、
そして劇場へきたに違いありません。
そして上演し、
見事、苦しさと悲しさの中でも消えない希望を、
観客に伝えることに成功したのだと思います。
素晴らしい上演でした。
★芝居処華ヨタ『カバはヒポポタマス』1st目
一見児童劇のような書き割り風の美術の中、素朴なモラトリアム物語が始まるとみせかけて、
まるでヒポタマスがゴドーの役割を果たす劇なのだと、序盤早々わかってゆきます。
つまり、ヒポポタマスは最後まで姿を観客の前に姿を現さず、
それにかかわる登場人物の関係やなりゆきが描かれる、
いわゆるマクガフィンストーリーが始まるのです。
そういえば主人公は2人だし、舞台装置の片隅に、不条理劇の象徴でもある電柱があるし。
と思っていたら、
やがて唐十郎が始まり、西部劇が始まり、明日に向かって撃て! も始まり、
演劇ガジェットが散りばめられた味わいになってゆきます。
物語のテーマを求めようとすれば、
それは正体不明の何かに熱狂する我々が、
やがて暴力や戦争をも引き起こし、
正気の者を蹂躙してゆく…ということを描く物語とも言えます。
でも、もしかしたらこの作品は、
演劇ガジェットやサブカルガジェットが散りばめられた世界を
ただただ散歩して楽しむような、
唐十郎店長のヴィレッジヴァンガードのような気楽なものなのかもしれません。
ところで通常、マクガフィンといえば、
スパイたちが奪い合う機密文書だったり、
あるいは姿を現さない重要人物だったり、大抵はなんらかの「物質」です。
しかしこの作品のマクガフィンは、
「カバはヒポポタマスなのに、ヒポポタマスはカバではない」
という謎の理論そのものです。
とことん我々のイメージ化を拒む、
概念系なのか物体系なのかすらわからない何かなのです。
それを信じること・イメージすることが難しすぎて、
俳優たちも、自分にとってのヒポポタマスを信じていなかったかもしれない。
信じていない、で正解なのか。
それとも今後のステージでは信じる方向に進んでゆくのか。
とか思いました。
★芝居処華ヨタ『カバはヒポポタマス』2st目
正体不明の何かではなく、
正体を明かすつもりのない何か、つまりケムに巻くつもりしかない何かに、
抵抗する若者の話なのだと気づきました。
しかしその抵抗しようとする若者自信も、
「お前はヒポポタマスではない何か別のものを信じているのか?」
と問われれば、
「信ずるものなどないが、ヒポポタマスを信じることはゴメンだ」
という答えしかない。
自分の信ずる何かがあるのではなく、
ただケムにまかれたくないその一心しかない。
その一心だけで、ついに抹殺されるまで抵抗してしまう。
そんな、
手元に持てるものがなにもない若者たちの切なさを思いました。
社会の正体はなんですかと問うても誰も教えてくれない。
そんな社会とやっていけない我々自信の恐れの象徴が、
この物語の主人公ふたりなのかもしれないのです。
恐ろしいことに、
この作品そのもが、
「何を描いたのですか?」と観客が問うても、
とことんケムにまくつもりかもしれない。
そう思い至り戦慄もした、
私の観劇2回目でした。
★芝居処 華ヨタ『カバはヒポポタマス』最終st.
我々の社会は、基本法則を明らかにせず、
我々をケムにまこうしている。
―――そこまでは私の感想は代わりません。
この芝居はその「ケム」にまかれまいと抵抗する若者2人の物語である。
と当時に、
「ケムにまこうとしてくる社会への抵抗として、
我々の演劇はあるのだ」
という気持ちがこの上演にあふれていることに、
やっと私は気づきました。
この作品に出てくる様々な演劇ガジェット
「明日に向かって撃て!」「夕陽のガンマン」「ゴドーを待ちながら」「別役実の電柱」「唐十郎の街角」
―――それらは、
ケムにまこうとしてくる何かへの抵抗の歴戦タイトルです。
華ヨタのメンバーが、若者なりの演劇をひっさげて、
社会に抵抗しようとしている。
その時、意図的なのかどうなのかわかりませんが、
こうした先輩たちの演劇のアイコンが溢れてきたのかもしれません。
演劇を作るのだ、訳の分からない何かに飲み込まれないように。
観終わってから、
そんな叫びを受け取ったことに気づきました。
★ラビット番長『トノトノトノ』1st目
脚本、演技、演出、すべてにおいて徹底したウェルメイドで勝負する45分。
まるでフォン・ド・ヴォーのような芝居です。
徹底的に雑味を取り、正解を見つけ、澄み切った芝居をつくっています。
これはすごい。
見た目の見やすさ・オーソドックスさの下に、
気の遠くなる手間暇がかかっています。
その手間隙を、観客に気づかせようとしない。
この勝負をするのは、もし私なら大変な勇気が要ります。
私や、あるいは我々作り手は、自分の独自性や努力ををわかってもらいたくて、
そういう動機でつい、澄み切らせる手間を省いてしまうのです。
インディーズ演劇だろうと商業演劇だろうと、
ここまで端正なフォン・ド・ヴォーを目にすることはそう多くありません。
登場人物の中にいる、
見事な職人であり、かつ人情のあるお父さん。
あの姿が、この劇団の姿そのものなのかもしれませんね。
物語の中で、
まな板の上に載せられる運命の鯉が、死地にいる侍に重ねられてゆきます。
情が移ると料理の腕が鈍るから気をつけろとお父さんは言います。
それは物語の中の言葉でもありますけれど、
物語や着想という素材を前にした我々作者や演出家や俳優の、
葛藤そのものでもあります。
この劇団の上演スタイルならば、なおのことでしょう。
物語という鯉を、我々演劇者は美味しい料理に仕上げなければならない、
そのために捨てなければいけない情がある。
だけど、そうは言いながら、
時には包丁を置き、生きたままの鯉を眺めて飲む風流な酒もあるじゃないか。
脇役の若い男がそう言って、皆がホッとして物語が終わりに向かう中、
この澄み切った『トノトノトノ』にも、
澄んだスープの僅かなにごりにも似たプロット上の詰めの甘い部分がついに現れます。
その風流。
私は幸福を感じました。
ってことをティーチインでうまく言えなくてすみません!
★ラビット番長『トノトノトノ』最終st.
感想書く余裕なかったのですが、2回目ももちろん見ています。
一回目の感想にも書いたとおり、
ウェルメイドの粋を尽くした劇なのです。
オーソドックスな演劇スタイルですし、
観客はすんなりと、当たり前のようにリラックスして見ることができます。
しかしフォン・ド・ヴォーが、料理人同士にとっては
どれほど手間暇かけているのかわかる料理であるのと同じく、
これは私にとって、演劇人としての手間暇を見逃してはならないという、
非常に緊張する観劇でした。
オーソドックスな演劇スタイル、と言いましたが、
長い演劇の歴史においては、
ウェルメイドな演劇は比較的新しいものになります。
それは原初には存在しないものでした。
演劇技術の発展とともにウェルメイドが登場したあとも、
荒々しい破壊と創造の演劇と、
端正に整頓された演劇、
それはら歴史の中で交互に現れ、あるいは並走してゆきます。
冒険の子供としてウェルメイドがあり、
ウェイルメイドのさらなる子供としてまた冒険がある。
演劇祭というものは、ともすると、
「新しいもの」「冒険的なもの」に傾きがちです。
そこにこの磨き抜かれたオーソドックスをもってくるラビット番長に、
演劇職人の気骨を見ました。
ところでこんなに
ウェルメイドだのフォン・ド・ヴォーだの言いましたが、
2回、3回と見ると、
ちらりちらりと、濁った部分も見つかります。
人が一生懸命、手で作ったものなんだな、と、
愛しく感じました。
★Micro To Macro『スモールワールド』1st目
友達の死体を抱えた、その友達の行きたかった海まで、ちょっとした道のりを冒険する小学生たち―――という、ギョッとするプロット。
それを、ノスタルジックな優しい雰囲気で描くという、まさに逆『スタンド・バイ・ミー』な作品です。
作品内容も、後に作家を目指すことになる主人公の、少年時代の物語。
『スタンド・バイ・ミー』のように、自伝的内容をはらんでいるのかもしれません。
この作品の面白いところは、劇中の登場人物たちの奮闘だけでなく、
それを凌駕する奮闘ぶりを、作品を演じる俳優たちや作家たちが見せているところです。
見せているというより、隠しようがないほどに頑張っているのです。
なんとか芝居を作ろう、いい芝居を作ろう、観客に光をとどけようと、格闘している。
その奮闘が見えてしまうことは、ある意味良くない。
でも良いとか悪いとか言っている場合じゃないという局面。
果たして主人公たちは目的をたっするのか?
と同時に…この芝居のメンバーは目的をたっするのか? という
上演者にとって何よりも何よりも切実な冒険が走っているのです。
私はこれもまた、演劇の重要な魅力だと私は思います。
余談ですが、
この作品は英雄神話の構造をとっています。
―――彼らが子供たちの世界(除菌エリア)から大人たちの世界へと旅立ち、
冥界に足を踏み入れ、流れ星を見るという特別な力を得た上で、
またもとの世界に帰還する―――という神話構造ですね。
冒険の過程で3つのアイテム(蕎麦と楽器と海)を得たり、
女神からの贈り物(ブルーシートでしょうか)があったり、
そういう神話ともリンクしていそうです。
一生懸命芝居づくりに取り組んだあげく、意図せずそういう符号が起きることに、
なにか奇跡のようなことを感じました。
★Micro To Macro『スモールワールド』2st目
大人だったら簡単にいける場所でも
子供たちにとっては大冒険なんだということを、
より素直に思い出せる上演でした。
今大人になった私たちも、
自分の力が足りなかろうが挫折が足元まで迫っていようが、
諦めずに人生の中、
遠いところを目指して冒険したいものですね。
そして、
2回目の観劇でもやはり、
この作品の持つ[神話構造]が明確に感じられます。
子供たちが次の世界を作ってゆく。
その意味で子供たちは神々なのかもしれません。
私達がかつて神々だった頃、
私たちは世界を作っていたのかもしれません。
そのことを思い出すための、
この作品は祝祭劇なのかもしれない。
そんなことを思いました。
ちなみに、1回目の感想を、
冒険の過程の3つのアイテムを「蕎麦」「楽器」「海」
と私は書きましたが、
3つ目のアイテムは「海」ではなく「死体」だったのだと
2回目観劇で気づき直しました。
★Micro To Macro『スモールワールド』最終st.
奇妙な言い方になりますが。
より、のびのびともがく! そんな
俳優たちの姿が気持ち良かった。
スペシャルサポーターの三島監督がおっしゃっていましたが、
いつもならベタすぎて見ている我々が引いてしまうような展開や行動に、
熱くなって楽しくなって感動してしまう。
この芝居はそんな芝居です。
Micro To Macroはいつもそうなんでしょうか…きっとそうなんでしょうね。
だから仲間が集まるんでしょうね。
なぜ私たちは、
ベタすぎる友情や愛情や夢の物語に小っ恥ずかしくなってしまい、
距離をとってクールに振る舞ったりするんでしょうか。
それはもしかして、
本当は求めているのに、それが手に入らなかった時の無念が怖くて、
最初からその無念に備えようとしてしまっているからなんでしょうか。
信じろ信じろと暑苦しく迫ってくる物語に対し、
もしも信じて無駄だったら責任をとってもらえないことを
私たちは知っている。
もしも信じさせて無駄だったら責任をとれないことを、
物語側も知っている。
その不可能に挑んでいるのが、
演劇の現場なのかもしれません。
Micro To Macroの尋常でなく振り絞った全力は、
その不可能を1秒でも超えようとする45分間だったように思います。
受け取る人によって様々でしょうけれど、
多くの人が1秒ではなく何十秒も、何分も、
もしかしたら45分以上、
見終わって家に帰ってからの時間も、
その気持を受け取り続けたかもしれませんね。
★激団リジョロ『Recall』1st目
人生で一度でも、こんなにも熱く心の底から全身で
想いを叫んだことが自分にあるだろうか。
そう思わされてしまう、演劇の原型のような上演スタイル。
どういう稽古をすれば、俳優はここまで熱くほとばしることができるのか。
演出家の私はついそういうことを考えてしまいますが、
この熱く輝く戯曲を渡されたら、もう全身全霊で叫ぶしか、
俳優にはないのかもしれませんね。
過去にタイムリープした兄弟が、
自分たちの祖父と父の生きた激動の日々を目の当たりにする物語。
今まで知らなかったその想いと願いと無念を前に、
過去に干渉してはならないはずの二人は、
どうしても、若い父に未来を任せろと言わずにいられない。
SF的プロット。
しかしこのプロットで描かれるのが、
実際の在日朝鮮人である祖父やその息子や孫たちの、
現実の生き様と言葉であるため、
芝居は虚構を超えて真実の地平を駆けてゆきます。
過去の若い父に、時空を超えて叫ぶ息子の言葉は、
虚構ではなく、本当に時空を超えて過去に届いて欲しい、
真実の叫びなのです。
過去は手の届かない悲しいものではなく、
その続きにいる我々がどう生きるかによって、
大きな幸福の道の一通過点へと変わる。
その素晴らしい瞬間を見ました。
余談なのですが、
この素晴らしい激団リジョロの脚本・演出の金光仁三さんは、
私の惑星ピスタチオ時代の芝居を見てくださっていて、
私が一番苦しくてもがいていた98年の『KNIFE』を見て拍手をしてくださった一人なのだと、
昨夜知りました。
あの日の私に、この幸福を教えてやりたい。
だから頑張れよと言ってやりたい。
そう思いました。
★激団リジョロ『Recall』最終st
無論2回目も見ています。
見事な演劇です。
熱量の一言でだけで表すことはできません。
リジョロの場当たりを見ていた時、印象的だった演出家の言葉がいくつもあります。
登場人物が海に向かって叫ぶシーン。
音響チームが波の効果音の音量を、俳優の声がよく聴こえるように調整していたのですが、
そこで演出の金光さんが言ったのです。
「波の音量を、声をかき消すくらいメチャメチャ上げてください、
その音にぶつかって負けないくらいに声を張り上げるので」
海を表現する大きな布を、役者が抱えて袖にハケるシーン。
舞台監督(全テクニカルスタッフのチーフ)が、
「ハケる俳優さんの姿が見え過ぎなので、照明暗くしましょうか?」
と質問すると、金光さんは
「ええちょっとだけ…でも、うちの芝居は、それも全部見せます!」
と答えました。
そうやって、リジョロはどんどん芝居を過熱して、
客席の胸ぐらをつかんで抱き寄せてゆくのでした。
リジョロの芝居を見て明確に体験するのは、
演劇は何かを描くものではなく、何かを作るものなのだという、強い強い熱です。
夢を描くのではなく、夢を作り出す。
未来を描くのではなく、未来を作り出す。
熱を感じさせるのではなく、観客を実際に熱する。
芝居を見ながら、
客席の眼前に、描かれた光景ではなく現実の巨大な道が開かれ出現してゆく、
この圧倒的体験。
この芝居を見た誰もが、
自分の未来を少し変えられたと思います。
大きく変わった人もいるでしょう。
輝きのある方向に。
そんな作品を作った劇団が、
今年、MVOに輝きました。
圧倒的体験を、ありがとうございます
★かのうとおっさん
『幸子、悪口は悪い顔で言うものよ。』1st目
私は場当たりとゲネプロも見ましたが、
その時私はしっかりとこの芝居を掴めていなかったのだと知りました。
思ったより遥かに奥深かったのです。
3人の同い年の親友たちが、
20代・30代・40代と、10年おきにレストラン(など)に集って、
互いの近況を話す―――という、
いわゆる『セイム・タイム、ネクスト・イヤー』ものの物語を、
演劇ならではの壊れた会話やシュールなエピソードで紡いでゆく作品です。
その壊れっぷりとシュールさが面白かったので、
ゲネプロの時まで私はこの作品を、
この壊れた会話やシュールなエピソードによる笑いが中心の芝居だと思っていました。
しかし、本番を体験した今、私の心には
そんな壊れた会話やエピソードの中でもずっと残り続ける
それぞれの人生の戦いや友情の強靭さによる幸福感が残っているのです。
10年という月日は長い。30年ならなおのことです。
その月日の間にはいろんなことがある。
砂漠の巨岩を、長い年月の間に風が削ってゆくように、
月日の砂粒は私達の人生も削ってゆくのかもしれません。
そして、まるで奇岩のようではあるけれど、
それでも残る友情や真実は、きっとあって欲しい。
そういう願いを感じました。
まるで奇をてらったかのような壊れた会話やエピソードは、
岩をも削る月日の厳しさを表現するために必要だったのです。
その壊れて狂ったエピソードが、いかに3人の人生や関係を削っても、
それでも奇岩のように残った友情と人生。
45分ずっと笑いながら、幸福の涙がこぼれました。
★かのうとおっさん
『幸子、悪口は悪い顔で言うものよ。』2st目
上演2回目を見て気づいたのは、この作品、「そんなヤツおらんやろ」みたいな3人の女性の話なのに、不思議にも、自分や自分の友だちの話に思えてくるんですよね。男性の私ですら。
この不思議な効果が起きる理由を私なりに分析してみますと、
1/破壊的エピソードとリアルなエピソードの解像度に差(デザイン用語でいうジャンプ率)が十分にあるため、
破壊的エピソードがリアルさを邪魔しない。
2/リアルなエピソードの傾向が、年代によって3人の間でうまく互換されており、
全体として、3人のエピソードではなく、「いろんな誰か」のエピソードになっている。
3/そもそも3人を演じる役者が途中で変更されてしまう(楽しい)ため、
3人それぞれの肉体的統一感が霧散し、それでもエピソードが濃いため、
観劇者が自分や友人の記憶にあてはめる準備が整っている。
などがあるでしょうか。
きっと他にもあるんですけれど。
その全てが意図的な設計なのか、
それとも単なる脚本演出家のセンスなのかはわからないのですが。
ともあれ、まるで自分や自分の友人が、
リアルな貧困や恋愛や生活で困る一方、
電撃と毒とナイフで闘ったり、盗聴したり、ピラルクーに食べられたり、
カラフルな妄想の世界を渡り歩き、
そんな中、25年の月日がたってもまた友達と再開して「どーしようもないな」って思ったり…
なんだか素晴らしくいろいろあった面白い人生を生きた気持ちになるのです。
幸福だなあ。
★かのうとおっさん
『幸子、悪口は悪い顔で言うものよ。』最終st.
笑いを中心とした演劇、いわゆるスラップスティック・コメディとして観劇してもすごく面白いのですが、しかし私はこの作品を、
笑いながら楽しめる「文学作品」として受信しました。
いや、笑いながら、というよりも、
笑いによって理屈の壁を壊すからこそ、深度を増す文学だったのです。
壊れたエピソード、セオリーを破壊する演出。
それらがどんどん機能して、
物語はついに「登場人物」の人物像すら破壊し、
観劇者である私達の人生にまで接近してくるのです。
演劇でなければありえない程どうしようもない人たちが、
それでも10年ごとに集まって、
互いの人生に、ぐだぐだの乾杯をする。
その乾杯に、
自分の人生が救われたような気がしました。
最初のエピソードでは店長が軽く殺害されたりして
笑いのパーツになって流されていた「死」が、
最終エピソードではもう気軽に笑えない。
そこに、「行き着くとところまで行き着いた」感が漂います。
そんな彼女たちの人生のテーブルに、
若い頃の彼女たちも「久しぶりー」みたいに集まって再会して、
みんなで笑って飲むラストシーン。
こんなに幸福で美しいラストシーンがあるでしょうか。
私も今の友人たちと、そして若い頃の私たちと、
みんなで再会して笑い会える日がきたらいいな。
笑いながら涙がこぼれました。
★劇団イロモンスター
『感情のないあっきー』1st目+2st目
とても面白い。実は陰惨な展開の物語を、うまく笑いで包み込み、あっという間に45分たちます。
そして見終わったあとには幸福感が残るのです。
陰惨な環境を生き延びた孤児たちが、ささやかな幸福にたどり着く…というプロット。
彼らが感情豊かに幸福感たっぷりに育てられている場所は、
彼らを処刑ゲームに送り込む施設だった。
そんな恐ろしい設定の物語を、
笑えるシーンの連続で紡いでゆくのです。
見事な構成です。
重要シーンで、何度もビデオカメラが舞台上に持ち込まれ、
リアルタイム撮影した映像がプロジェクターで大きく映し出されます。
その手法が、演劇に「映像的要素」を加える手法になるのではなく、
「演劇的要素」を加えることにつながっています。
それはとても不思議な感覚でした。
たとえば、子供が一人処刑されるシーンも、
映像のおかげで異様に恐ろしいリアリティを帯びていたりしたのです。
衣装や美術が白と黒で構成され、
それがオセロのコマに似ていることが冒頭の小ネタの中で明示されます。
そして物語は、明から暗へ、暗から明へと、
オセロのように目まぐるしく明暗が入れ替わりながら進んでゆくのです。
特に終盤、もっとも権力のある主催者がどんどん立場をひっくり返されてゆくシーンは、
笑いのシーンでもありながらも、
同時に非常に緊迫した物語的なオセロでした。
よく作られています。
余談ですが、
この作品はなんと、
今回の関西演劇祭で出場している[TAAC]のと、偶然にも対をなす作品だと、
今日の観劇中に気づきました。
明確に「白と黒」をテーマにした美術と衣装。
双子の存在。
TAACのタカイさんも、もしかしたらあだ名が「あっきー」なのかも…
★劇団イロモンスター
『感情のないあっきー』最終st.
前回上演の感想でも書いたとおり、
「白と黒」のみでまとめられた衣装と美術が際立ちます。
例外は一人いるのですけれど。
以下、私の勝手な深読みではありますし、
脚本演出担当のシゲカズですさんは
たまたまそのように作っただけなのかもしれませんが、
それでも無視できない、
この作品の並外れた符合について書きます。
この作品は、物語幕開けの漫才でも触れられる「オセロ」そのものです。
孤児院施設というゲーム板の上で、
幸福と笑いに満ちた子供たちの人生が、
いとも簡単に恐怖と絶望の時間に変わる物語なのです。
奇しくもオセロにおいて重要な攻略基点と同じく
「コーナー」と名付けられた娯楽ゲームも、
「闇コーナー」という処刑ゲームに変貌し、
子供たちは園長、主催者、創設者、神 というプレイヤーたちによって、
生と死の白と黒を、めまぐるしくひっくり返され続けるのでした。
オセロゲームの名前の由来であるシェイクスピア悲劇の「オセロ」がまさにそうですが、
信頼と裏切りが、
愛と憎悪が、
全てたったひとつの要素でひっくり返ってゆくのです。
この、闇と光のオセロの中、
感情を失い表情も失った子供・あっきーに、
仲間・ぜっとんが
「あっきーは感情がないんじゃない。小さくてよく見えへんだけや」
と語ります。
なんと、まさに神は細部に宿るという言葉どおり、
ぜっとんの正体は実は「神」なのでした。
そして、支配者であった園長も、
実はもとは孤児院の子供として生き残った人物だったと判明します。
彼は、子供たちをこのゲームから救うため、
自分の命と引き換えに、すべての連鎖を断ち切り終わらせるのでした。
こうして、オセロ板そのものがひっくり返されて物語は終わります。
この全てを、
計算ではなく、たまたまのノリでシゲカズですさんが設計したのだとしたら、
恐ろしい物語構築センスだと言わざるを得ません。
偶然できあがるようなものではないでしょう。
本当はどっちなんでしょうね?
それも、白と黒でわりきれるものではないのかもしれませんね。
「イロモンスター」という名前は、
イロモノ と モンスター と スター
から出来た名前な上に、
「色・モンスター」でもあるでしょうから、
この白と黒にこだわった演劇作品を作るのに
ふさわしい劇団名だともいえますね。
ちなみに、
平面的にも見える舞台上の「横並び」の立ち位置とテーブル。
それは、オセロのコマたちのようにも見え、
また同時に、
生と死を描く物語にふさわしいダ・ヴィンチの名画「最後の晩餐」のようでもあります。
そういえば、「最後の晩餐」は、
イエス・キリストの使徒12人が、
処刑前夜のキリストとともに食卓を囲む様を描いた絵です。
「感情のないあっきー」の登場人物も、12人。
キリストのいない「最後の晩餐」が、この作品だったのかも…
そんなことを思いました。
演劇として非常によくできた作品であると
私は思います。
★劇団なんば千日前『カレーとシチュー』
1st目+2st目
まず面白いのは、舞台美術が大胆に斜めにおいてあることです。美しい。そして美しいだけでなく、この斜めの角度は、
「不安」と「変化の途中」を
心理的に象徴している、と私には感じられました。
タイトルにある「カレーとシチュー」は、
主人公たちの実家の母の、昔からの定番料理です。
カレーとシチューを同時に作るのですから、
ちょっと普通より変わってますね。
家族の末弟が婚約者を自宅に初めて連れてくる日、
兄や姉たちは、
その定番料理で婚約者をもてなそうとして準備をしています。
しかし婚約者を連れてくる末弟本人は、
そんな風変わりな料理を出すのをやめてくれと思っている。
一家の歴史と愛が詰まったこのメニューを否定されたくない兄と、
それが婚約者に笑われないか不安な弟は、
互いに相手を大切に思っていながら、喧嘩をしてしまう…
そんなささやかな心の機微を描いた物語なのです。
この劇団は、
普段は吉本新喜劇の舞台に立つ
吉田裕さん・レイチェルさん・桜井雅斗さん・鮫島幸恵さん・吉岡友見さんの5人が、
結成したチームです。
それは、吉本新喜劇で培った演技が、
新喜劇ではない場所でも受け入れられるのか
という挑戦でもあります。
まさに、
吉田さんたちにとっての「カレーとシチュー」である
新喜劇の俳優の演技。
それを、演劇祭の観客という「末弟の婚約者」にお披露目する舞台
だったのです。
きっと、不安もあり自負もあり決意もあったでしょう。
この「不安と変化を象徴する『斜め』の舞台装置」は、
チームの思いを象徴し浮き彫りにしている。
素晴らしい美術です。
斜めの美術にはもうひとつ素晴らしい効果がありました。
斜めになっているおかげで、
部屋の片隅の誰もいない方向が、
観客席に対して最も正面で近距離になるという
立ち位置の妙が発生するのです。
この設計のおかげで、
誰かが部屋の真ん中で喋ったり喧嘩をしたりしている時、
それを背中で感じながら部屋の隅で一人苦悩している主人公の表情が、
観客からは正面に見えるようになっています。
その時の吉田裕さんの、
無言の、静かな、集中した心の演技が、
私はこの芝居の最大の見どころだと思いました。
偽りのない、優しく悲しく真実に満ちた、素晴らしい演技です。
物語の後半に登場するシーンですから、
次の上演でご覧になる人は、
是非この静かな演技を堪能していただきたいです。
★劇団なんば千日前『カレーとシチュー』
最終st.
主人公タケの狼狽、苦悩、愛情が、
より深く柔らかく感じられる上演回でした。
前回も書きましたが、
一見普通のリビングルームの装置が、劇場と客席に対して斜めの角度で設置してあります。
それは心理的に「不安」を呼び覚ます角度であり、観客は45分間ずっと、
その不安を深層意識で感じながら芝居を見ることになる。
つまり主人公タケの不安と弟シュンの不安に、
無意識に観客が寄り添い続ける演出設計になっているのです。
静かな、見事な美術です。
美術と演出が、主人公の心をずっと黙って応援している。
そこに観客が集中できるようになっている。
だから役者の演技をじっくりと見ることができる。
描かれる不安は、人生の機微にまつわるささやかなものなのです。
カレーとシチューを一緒に食卓に出すという、
ある一家の定番のご馳走。
ちょっと変わったメニューだけど、
家族の思い出のつまった、家族の絆を象徴する大切なご馳走です。
それを、一家の弟の婚約者を初めて家に招く日、
ご馳走に出しても笑われないか、恥ずかしくないのか、
受け入れてもらえるのか。
弟の選んだ恋人なら、きっと受け入れてくれるはず。
でももし笑われたらどうしよう。
そんなささやかな不安と、愛情の物語なのです。
吉本新喜劇の俳優さんたちが、
笑いを一切配して演劇祭に臨むというこの劇団の脚本として、
よく考えられた温かい脚本だと思いました。
3回目の上演で、作品をより柔らかく深く感じられたのは、
主人公タケを演じる吉田裕さんが、
それまでの2回の上演で手応えを感じられたのでしょうか、
冒頭からより柔らかく物語を演じてくださった功績が大きいでしょう。
この劇団の芝居というカレーとシチューを、
演劇祭の観客は、
心から美味しく、楽しんで受け取り、
幸福を感じたと思います。
◇ ◇ ◇
私は、冒険する演劇が大好きです。
芸術とは、今できることの地平線を超え、
困難と不可能に満ちた場所に踏み入って、
自分や人類にとっての地平線を押し広げてゆくことでもあるからです。
この「不安」を象徴する美術は、
全体として10センチの高さをもつ一枚の板の上に乗っています。
それはまるで、不安の海に漕ぎ出した「冒険の船」のようでもありました。
その冒険船の舳先で、
悩んだり家族への想いを語ったりする主人公。
すばらしい冒険の景色を、見ることができました。
★幻灯劇場『0番地』1st目
途方もなく美しいものを見ました。
ある日本人の若者と、架空の民族「バンチ」である恋人の、
とある悲しい静かな夜から始まる物語です。
その悲しい夜は、
若者自身が持つ懐中電灯の光だけが、
夜道や恋人を照らす中で表現されます。
ふわふわと動く懐中電灯の照らす世界。
芝居全体を見終わってその光景を思い出すと、
自分が見る方向とその明るさは、自分次第なのだ
ということを象徴していたような気がします。
そして描かれてゆく、
一見繋がりのない、バラバラの4つのストーリー。
各話が進んでゆくうちに、
バンチの民が、日本社会では随分不当な過酷な扱いを
受けているらしきことがわかってきます。
さらには、物語のこの時代、たとえば神戸も、
日本にとっては他民族の国になってしまっていることなども
わかってきます。
日本はバラバラなのです。
地理的に、バラバラの島に分かれているのかもしれません。
ですがバラバラの土地や人も、
いつか戻ってつながって欲しい。
「大陸が繋がってたら、僕らもまだつながっていたかも」
と生演奏の歌が歌われながら、
やがて、
バラバラだった物語が、
まるで奇跡のようにひとつに集まってつながってゆきます。
そして、
冒頭の悲しい夜に、
主人公の二人の恋は終わっていたのだとわかる。
同時に、いつかまた二人は一つになりたいと願っていることもわかる。
それがわかった瞬間、物語は終幕となります。
この物語を、
優しく、楽しく、あまり熱くはない言葉で。
生演奏の優しい音楽と、情熱的なコレオフグラフィーで。
描いてゆく。
素晴らしい芝居でした。
★幻灯劇場『0番地』最終st.
何回見ても心奪われる素晴らしい光景と音。バラバラになった国を舞台に、バラバラになった人たちが、また一つになりたいと願う物語。
この物語を、
一見関係のない「バラバラ」の4つの物語を使って描き、
上演時間の終盤、突然、すべての物語がひと繋がりだったことが明らかになる
という、物語の外側にまでプロットを広げた作品なのです。
実は4つに見えていた物語のほかに、
プロローグで登場したもう1つの物語があり、
4つと1つですべてはつながる。
思い返すと、
プロローグに続いて演じられた2人一組の美しいダンスは、
4組+1組で演じられていて、
それはバラバラの物語の数と符合します。
なんという用意周到な設計でしょう。
もしかして、音階数の少なそうな
オープニングタイトル曲まで、
4音+1音で作曲されていたりするのでしょうか?
メンバーの方にそれは伺い忘れましたが…まさか…?
以上、全10劇団、10作品を振り返りました。
思い返すと、観劇をしながら「幸福感」のある作品が多かったと感じます。
辛く悲しい物語でも、そこに優しさがあり。
狂ったような壊れた物語でも、そこに暖かさがあり。
天使と悪魔も団結していたり。
劇団たちが幸福を求め、
そんな世界を作ろうとしていたのだと、私は思います。
演劇は、時代を追いかけるものでもありますけれど、
それ以上に、時代を作ってゆくものです。
私達が演劇を作る限り、世界は更新されてゆく。
私はそう信じています。
さあ、私も演劇を作ります。
長い記事をお読みくださり、ありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?