
受肉のキリスト論~その様態と理由について:ヨハネの福音書1章1,14,18節
イエス様が人でありながら神であるとはどういうことでしょうか。またそのことがなぜ私たちにとって必要なのでしょうか。この「イエス様が人性と神性を持っている」ということが、どのようにして実現するのかは、既に5世紀に議論されていました。その結果「人性と神性の両性が存在する様相の詳細は分からずともそれを事実として受け入れ信じる」ということが当時のキリスト教会の中で合意に至りました。
私たちがイエス様の両性について知ると、その信仰生活が広く深く根を張ることができます。
これから私たちの礼拝では新しくヨハネの福音書の3章を取り上げます。その上で、イエス様の受肉について知っておくべきことは、3章から読み進めるための良い準備となるのです。ということで、受肉のキリスト論を以下の3つの点から取り上げます。1.新語としてのロゴス,2.なぜイエス様は神でなければならないのか,3.イエス様が人となる必要があったのか。
当該聖句
1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
(引用聖句は全て新改訳聖書2017年版です)
1.新語としてのロゴス
「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1:1)
「イエス・キリストが、神であり人である。」ということをキリスト教の専門用語では「受肉」と言います。ある学者は、受肉について「イエス・キリストが神であり人であるという根本的なキリスト教の信仰を要約し、明確に主張している」と言います。そしてヨハネの福音書ではそれを「ロゴス=ことば」という単語で表しているのです。
新語の例とロゴス
50-50(フィフティー・フィフティー)は2024年に大谷翔平選手が残した偉業を表す言葉です。これは同年の新語流行語の大賞にはなりませんでしたが、トップ10にランクインしました。50自体は単純な数字ですが、50-50はそれまで誰も成し遂げたことがない歴史的偉業を表す新しい言葉となったのです。いわばこれまで誰でも知っていた言葉が新たな意味を持つことになったのです。
実はヨハネの福音書1章で使われているロゴス(「ロゴス=ことば」)もそれと似ているのです。「ロゴス=ことば」はイエス様が「本物の人間で本物の神なる存在」であったことを表す新しい言葉です。福音書記者のヨハネは、「イエス様が本物の神であったこと」、すなわち目に見えない神が人となった、という未だかつてなかったことを表すために「ロゴス」に新しい意味を込め新しい言葉としたのでした。
「ロゴス」の一般一般的な背景と旧約聖書の背景
まずヨハネの福音書が書かれた当時のユダヤ人以外のギリシャ的背景を持つ人たちは「ロゴス=ことば」について「宇宙を支配する、すべての出発点」と考えていたのです。
そしてユダヤ人をはじめ旧約聖書に精通していた人々にとってはロゴスが、神を指す言葉であると知っていたのでした。日本では古くから主君にたいして「お上」という言葉を使ってきました。そこには主君らに対する直接の名を呼ぶことに恐れ多いと考えた、という背景がありました。しかしそれ以上に、旧約聖書の時代の人々は神様に対する畏怖と敬意から直接神という言葉を使わず「天」などと言いました。
そして、その神様を指す言葉の中に「言葉」という呼び方があったのです。ですから旧約聖書の背景のあるユダヤ人は「ロゴス=ことば」という語によって神が表されているということを理解したのでした。
ロゴスの新しい意味
ですから福音書の著者ヨハネは「ロゴス=ことば」をギリシャ的背景持つ世間一般の認識(「宇宙を支配する、すべての出発点」という認識)と旧約聖書の神を表す最適な新語として用いたのです。ある学者は「ロゴス=ことば」についてこう解説しています。「生きた存在、命の源、擬人化ではなく、人格を持つ神的な存在で神以下ではなかった。」
要約すると「ロゴス=ことば」はヨハネの福音書に独特の新しい言葉であって、それによってイエス様が「本物の人間で本物の神なる存在」であったことが示されているのです。
2.なぜイエス様は神でなければならないのか
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(1:18)
なぜ、イエス様が神であるということが欠かせないことであるのかを見ていきましょう。ある神学者がこのように言っています。
「もしキリストがただの人間に過ぎなかったのであれば、その時彼は神についてどんな考えを述べようと、まったく不的確です。」イエス様が神様でなかったのなら、イエス様が述べる神についての言葉は聞くに値しないというのです。
神についての証言
昨年はいくつかの冤罪が取り上げられました。冤罪にはありもしないことを事実のように証言する、偽りの証言も関わりがあるでしょう。証言とは何かを辞書ではこう定義しています。「事実を証明すること。体験した事実を話すこと。また、その話。」
神について証言するイエス様が神でなければならないとは、考えてみれば当然のことです。なぜなら、神についての事実と神様として体験したことを証言しているのですから、神様以外に本当の証言はできないと言えるからです。なぜなら誰も神様を見たことがないからです。先ほど取り上げたヨハネ1:18でそう言われています。
新約聖書の言葉から
さらにⅠテモ 6:16では、神様は人間には見ることも、近づくこともできないとさえ言われているのです。
「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。」(Ⅰテモ 6:16)
さらにイエス様は神様ご自身がイエス様の真実さについて証言しているとさえ言っています。
「わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています。」(ヨハ 5:32)
まとめ
神について真実な証言をできるのは、神ご自身に以外ありえないということなのです。
3.イエス様が人となる必要があったのか
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(1:14)
先ほど引用した神学者はイエス様が神であることに続けてこのように言っています。「またもしキリストがただ神であるだけなら、その時彼は人間生活のどんな経験にとっても全く無関係です。」
イエス様が人となる必然性の理由1
イエス様が神であっても人間ではなかったのなら、人間が経験することについて語る資格はないというのです。これは「イエス様が人となられたからこそ、私たちの痛みを担い救って下さる」といった、私たちがよく知っていることです。
イエス様が人となる必然性の理由2
さらに次のようなことが言えます。イエス様は人間が神について神の言葉を理解できるよう通訳するがごとく人間となられたのでした。
つまり、人間が理解できる方法で神を明らかにするためには、神ご自身が人間にならねばならなかったというわけです。
人間が認識できる「人としての姿」をとりながら、神として、神に代わって語っており、また神として、神に代わって行動しているということなのです。これからヨハネの福音書でイエス様の言葉と行動を見ていきます。それを通して、私たちは神について考えるように、イエスについて考えることを学んで行くのです。
まとめ
イエス様は罪を犯しませんでしたが全ての点において人と同じようになられたので、私たちの悩みを知り救うことができるのです。そしてあたかも通訳者のように、神を知りえない人間が分かることばや行動で、神を証しするために、人の姿をとる必要があったのです。
キリストの受肉について教える新約聖書の言葉を最後に引用します。
「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」(ピリピ2:6-7)