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愛と光の中で~永遠のいのちと真理を行うことについて:ヨハネの福音書3章9-15節


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メッセージの要約

このエピソードでは、ヨハネの福音書3章16節から21節に基づいて、神の愛と永遠のいのちについて話されています。信じる者が裁きを免れ、救われる理由に焦点が当てられ、神の愛の深さが示されています。神の愛と先んじる愛の重要性が強調され、イエス・キリストの死によって表された神の愛が語られます。また、真理を行う人々が、自らの行いが神によってなされたものであることを理解し、光の中で生きることの意味について考察されています。

導入
先週の箇所で「永遠のいのち」という言葉が初めて出来ました。今日の箇所では「永遠のもつ」とはどのようなことが一部語られています(1.永遠のいのちとは)。私たちは自分自身を見つめるときに神様から無罪宣告を受けるに値しないと思えるかもしれません。しかし聖書の神様は私たちの良し悪しに関わらず私たちに救いの手を差し伸べて下さるのです (2.先んじる神の愛)。最後に自分のことが露わにされることを恐れず光のもと中に来る人について見ていきます(3.神によって真理を行う人)

当該聖句

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
3:19 そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。
3:20 悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。
3:21 しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。
(引用聖句は全て新約聖書2017年版です)

1. 永遠のいのちとは

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(3:16,18)

滅びることがないいのち

今日の箇所では「永遠のいのちを持つ」とは何かが分かることがあります。逆説的な表現から分かるのです。まず3:16には「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とある通り「永遠のいのちを持つ」とは滅びることがないいのちを得るということが分かります。

神様の前に有罪とされない

また3:17-18から分かることは「永遠のいのちを持つ」とは神の裁きを免れるということだということが分かります。裁きという言葉を詳しく見るとさらに分かることがあります。

昨年から冤罪について報道され、最近も再審・裁判のやり直しについてのニュースがありました。裁判には公正性が求められているように、「裁き」や「裁く」ことから生じる結果には有罪か無罪か両方の可能性があるということです。

ここでの「裁く」は有罪に処するという意味
しかし同じギリシャ語の言葉が英語のNIV訳聖書ではcondemnとなっていて、踏み込んだ翻訳により「有罪に定める」という意味を表しているのです。このような分けで英語の訳の方が元のギリシャ語のニュアンスを正確に伝えているのです。

イエス様を信じて無罪とされる
ヨハネの福音書の冒頭から「神のひとり子」であるイエス様が特別な救い主であることが示されて来ました。その流れの中で「そのお方を信じている私たちは、神様の裁きの前で有罪とされることがなく、滅びることもない」と教えられてのです。
このメッセージこそ福音です。

しかし私たちは自分自身を正直に見つめる時に、神様の前で自分が無罪になるとは簡単に信じることは難しいかもしれません。それが次の点に関わってくるのです。

2.先んじる神の愛

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3:16‐17)

自分自身を正直に見つめた時にとても神様の前で無罪になるとは思えないのであればこそ「神様の愛が先んじているという福音」が必要なのです。

私たちの良し悪しに関わりなく向けられる神様の愛

神様の愛は私たちの人間性の良し悪しには無関係です。その愛の大きさや純粋さが3:16に込められています。

どういううことかと言えば・・・
「神は、実に、そのひとり子をお与えになった」に、神様から私たちへの贈り物としてイエス様がどれほど尊いものであるかが分かるからです。
これまで見てきたように「ひとり子」や神の「御子」という言葉には神様とイエス様の親しさや親密さが表されているからです。
そして、そのひとり子を十字架に与えるほどに私たちを愛して下さったという、ここに神様の愛の大きさが示されているのです。 

神様の愛についての学者の言葉

学者たちの言葉を借りるとこう表現できます。「神様はこの世を大変強く愛したのでそのひとり子を与えられた。神は彼にとって最も大切なものを与えたということである。そのように父なる神の愛として示された。神の愛はその対象が愛くるしいからでなく、 『神は愛である』という崇高な真理の結果なのである。」

この、私たちに先んじる神様の愛を表している聖書の言葉を紹介します。
「正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:7-8)

 

3.神によって真理を行う人

「真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。」(3:21 抜粋)

この言葉は先に触れた「私たちは自分自身を正直に見つめるととても神様の前で無罪になるとは思えない」ということと関係しています。

光を愛する人は優れた人ではない

この21節の奇妙な表現は、光を愛する人が本来優れた人ではないことを明らかにしているのです。つまり光を愛する人は、自分を誇る独善的態度で神の前に出るようなことはしません。

その人が光を享受できるとすれば、それは、すべての良い行いが「神を通して」なされたことを知っているからなのです。

つまり「自らが神の中に生かされている故に」そして「自分の力ではなく神の力によって良いことが行われた」、ということが明らかになるために神様の前に出るということなのです。まさに神様に栄光を帰すのです。

まとめ
神様の前に無罪とされたのは、ただイエス様を信じるということを受け入れる時に、また自分の良し悪しに関わらず神様が私たちを先に愛して下さって、その愛故に尊いひとり子のイエス様を十字架に差し出して下さったことを受け入れることができると、神様が自分を通して良いことをして下ったと知ることもできるのです。

最後に神様の先んじる愛を表すもう一つの言葉を紹介します。
 Ⅰヨハ 4:10「 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 

 

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