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人生には、トッピングを。



「オリンピックが中止になりました。」


TOKYO2020と掲げられ、歓喜の渦をみていたあの頃の我々に伝えても、誰も信じないだろう。

世界で起きている感染症の拡大は発症から1年が過ぎても勢いが止まることはない。

世界が、日常が、一変した一年だった。


在宅勤務やリモートが始まった。

ライブやイベントが軒並み中止になった。

飲食店や観光業者の多くが閉業に追い込まれた。

地元に帰省ができなくなった。

歓送迎会、忘年会が中止になった。

外出時はマスク着用が必須になり、あらゆる場面でアルコール消毒を行うようになった。


当たり前が変わった。

マスクなんて花粉症の季節やインフルエンザが流行る時期に一定数の人のみ着用していたのに、真夏の暑い時期でも、梅雨のジメジメとする中でも誰もが当たり前に着用していた。マスクを着用にしていなく、これで責められている話題も出ていたほどだ。


仕事がなくなり、自殺者が増えた。

学校に行けなくなり、同期に会えず孤独に過ごす人が増えた。

自粛生活を強いられ、休日の過ごし方がわからなくなった。

毎日カウントされる感染者数が、どんどん増えていった。



それでも、私は変わりながらも変わらずに生きている。

大好きだったライブハウスには行けなくなったし、フェスは開催中止された。
飲みにいくこともできなくなったし、仕事も業務が変わった。

楽しみが減り、自粛に孤独を重ねる中どこに向かうであろう希望がみえない未来はどこを目指すのか。

飲み会はリモートでもできたし、ライブは配信が主流になり自宅でも楽しめるようになった。

飲食店はテイクアウトを始めるお店が増え、どこでも気軽に食べられるようになった。

不必要な会議はなくなり、満員電車は緩和された。

毎年膨大な感染者を記録するインフルエンザは、ニュースに挙がることも記憶にないほど感染者が減少した。

当たり前が変容していく中で、その変化に馴染む選択を続けた私は、この世界でも生き続けられた。

もちろん、やっぱりライブハウスに行ってみるライブは配信とはやっぱり違うし、直接語るのとリモートは距離感が違うし、もやっとした感情を抱きながらいる。


何かが足りない。

それが熱量なのか、密度なのか、距離感なのかはわからない。


でも、前の世界は満たされていたのか。

何者かになると思っていて、何にでもなれる気でいて、当たり前のように何でもできたあの時代に私は何者だったか。

何かのせいにして、やりたいこともやらずなりたい何かを知ろうともせず惰性で過ぎ行く日々だった。

別に何も変わらない。

もやっとした感情は今に始まったことではなかったのだ。


限られた中で、どうしたいか考えるようになった。

配信があれば、行けなかった地方でのライブも当たらなかったライブもみられる。当日仕事や用事で見てなくて後日アーカイブで楽しめる新しい楽しみ方を知れた。

価格も抑えられるから、気になってたけどワンマンに行くほどではないアーティストをみる機会が増えた。

不必要なことはやらなくなった。当たり前に開催されていた会議も見直され、業務の短縮、簡略化され残業が減った。必要とされて、みんながやっているものはやらなければというのはただの固定概念だったと気付いた。

本や漫画だけでなく、SNSの記事も読むようになった。YouTubeやネット配信サービスを利用するようになった。世間には知られていない面白い人がたくさんいることを知ったし、面白いものが溢れている世の中だと気付いた。

たまに行く、外食が貴重なものになった。値段で決めていたメニューも食べたいものを食べるようになった。好きな具は多いと嬉しいし、味玉はのってる方がハッピーだと知った。


感染症が拡大したことは、決して良いことでなかった。

けれども、選択するということを考えさせるきっかけになった。

仕方なく乗っていた満員電車も、最大限やっていたと思ってた感染予防行動も、必ず集合して開催された会議も、不必要だった。

疑いもなかったハンドドライヤーが、今は「感染拡大防止のため」と利用中止されている。今まで何を予防していたのか。

患者と接する際、表情が見えないと与える印象が悪いとマスクを着用を否定して、医療行為をさせていた上司は今の印象はどうみえているのか。

とりあえずで飲んでいた9%の缶チューハイは、何に酔って楽しんでいたのか。



きっと世界は戻らない。新しい当たり前にどう向き合うか、どう選択するか。
否定するのは簡単だ。でもその中で自分はどう生きるか。

誰じゃない、俺が、だ。

その選択がわたしをどう彩るか、何をもたらすか。
さあ、次はどっちだ。


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