いち髪。


「オバケみたいでしょ。」

私の目の前にいる決して若いとは言い難い、歳を重ねた女性がこう呟いた。
「そ、そんなことないですよ。」
と素っ気ない詰まらない返事をしてしまう自分の語彙力に辟易してしまう。
 女性は、半年にも及ぶ抗がん剤治療の影響で長く美しかった髪はすっかり抜け落ちてしまい、僅かに残った長い髪がだらしなく伸びており正しくオバケのような容姿に見えた。また髪が抜けただけでなく、吐気を強く催し食事が取れなくなってしまった影響ですっかり痩せこけてしまったことや、肌が荒れてしまったのも、それを助長していた。

 私は、看護師として大学病院に勤めてもう6年の月日が経とうとしていた。最初は、所謂白衣の天使と言われるような誰にでも明るく、優しい存在になりたいと志していた。しかし、月日が経てばそれは夢物語であったことに否応にも気づかされた。死ぬことのあっけなさや、治療の辛さを目の当たりにし、それに気づかされるのには時間はかからなかった。それでも理想と現実の違いに気づきながら、こうしてここにいられるのは自分でのよくわからなかったのが、早いもので6年もの月日が経過していた。

 月日というのは残酷であり、白衣の天使なんてものに憧れていたはずの私は、オバケのような風貌に変貌してしまった女性に対しても対した感情も移入することもできず、ただ計画されている治療を行えるよう与えられた業務をこなしていた。この女性が特別というわけではなく、つい最近まで何事もなく社会で生活していた人間が癌と申告され、治療を開始した途端このような風貌に変貌してしまう人は少なくなかった。見た目だけでなく、生活は一変しあっという間に死を迎えてしまう。死というのは、人間誰しも迎えるものであるのにあまりにも現実感がなかったが、死は間近なもので在り来りな存在になってしまっていた。そんなことを続けていたら、いつしかすっかりオバケにも見慣れてしまっていた。

 この女性は、元々髪が長かった。胸くらいまで伸びた髪はまっすぐで、染められてもパーマを当てられていることもなかった。それでも、まっすぐと凛とした髪は美しかった。しかし、治療が始まり、あっという間に抜けてしまったその髪はそれまでの凛とした輝きは失ってしまった。こうなってしまうと、抜け毛が多くなり管理が大変であったり、見た目をきにして髪を切ってしまったりする場合が多い。しかし、女性は一切切ろうとしなかった。ほとんど抜け落ち、かろうじて残った髪も、輝きを失い、ただただだらしなく生えているだけのようだった。入浴介助や、環境整備の度に抜け落ちる髪を回収していた私は、「さっさと切ればいいのに。」と心に思っていた。そう伝えることもできず、ただただ「そんなことないですよ。」と半端な相槌しかできない私は、狡い人間だった。

 こうした感情も告げることも、責めることもないままただ与えられた業務をこなす日々が続いた。ある日、その女性の髪を乾かしている時に、ふと女性にこう呟かれた。
「この髪だけが、唯一褒められたの。」
なんのことか、すぐには理解できなかった。女性は理解できていない私を構うことなく、lこう呟き続けた。
「ちゃんとしたプロポーズもされたこともないし、褒められることもなかったの。でも、この髪だけは褒めてくれたの。それが嬉しくて、それだけで認められた気がしたの。」
そういって女性は微笑んだ。私は、だらしなく伸びたその髪に何の生産性も魅力も感じずることもできず切ることやカツラや帽子で誤魔化すべきだと考えていた。それは大きな間違いで、その髪は彼女にとって大きなアイデンティティであったことに自分では気がつくことができなかった。
「それもいつの話なのって感じだと思うわよね、自分でもそう思うんだけど。また、会えたときに思い出してもらいやすくなるかなって。もう随分と変わってしまったから意味なんてないのかもしれないけど。でも、やっぱり嬉しかったんだろうね、だから今も未練たらしくこんなんになっているの。だから、あなたはちゃんとプロポーズはした方がいいわよ。女性は褒められて嬉しくない人はいないわ。」
彼女とは、そのような類の話はしたことがなかった。ただ、業務をこなす上で必要な情報収集とたまに話していた世間話程度の関係だった。それでも、私にそんなことを言ってくれたのには何か意味があったのであろうか。

それからというものの、女性の髪に対して今までの考え方はなくなり彼女の意思を尊重するようになった。可能な限り髪のケアを行い、現状を維持できるような配慮も行なった。そうはいっても、症状は進行しており客観的には悪化しているのだろうが、私の感覚では以前とは違って見えた。どうして私にそんな話をしてくれたのはわからないが、他の人と話をしても
「そんな話は聞いたことがない。」
と返ってくるだけだったのだから、私は彼女にとって何かしらの存在であったのかもしれなかった。

 そんなことを打ち明けてくれた数日後、病状はさらに悪化し彼女は帰らぬ人となった。相変わらず、伸びた髪のままだった。しかし、その髪はそれまでとは異なり凛として見えた。長く伸びた髪を纏った彼女は、美しくみえた。もしかしたら、私にだけそうみえたのかもしれない。それでも、伸ばす理由を知っている私にはそうは思えなかった。どうやら、業務をこなすだけと思っていた自身の関わりは彼女にとってはそれだけではなかったのかもしれなかった。彼女から直接聞くことはなかったが、
「そういった思いれを話してくれた相手だったあなたには、なにかしらの意味を持っていたのだよ。」
と伝えてくれた上司の言葉はそれだけで意味をもたらせてくれた。だからこそ、私はその髪の美しさに気がつくことができただろうし、私がこの業務を続けている理由を知るができた。それは、彼女の髪が教えてくれた。そしてきっと、その髪は私だけでなくまた出会ったときと同じように目に止めてくれるであろう、そう確信し彼女を見届けた。


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