
喫煙者の愚かさについて
世の中には愚行が溢れかえっているとはいえ、喫煙ほどの愚行もそうそうないだろう。さすが長年にわたって百害あって一利なしの看板を背負い続けてきた愚行である。他の愚行とは面構えが違う。
喫煙のメリットは何が挙げられるだろうか。真っ先に思いつくものとしては、ストレス軽減の感覚がある。たしかにタバコに含まれるニコチンは、脳内のドーパミン放出を促すので、一時的にリラックス効果を得られる。が、しかしそれはニコチン依存による禁断症状のストレスを、喫煙によるニコチン摂取で抑えているにすぎず、根本的にストレスレベルが改善しているわけではない。つまり、タバコによるストレス解消は、実態のない一種のマッチポンプなのである。
では、喫煙所に代表されるような社交の機会としてのメリットはどうか。たしかにそういう面はあるにはある。が、一方でたとえばそれが就業中であれば、喫煙者と非喫煙者の労働時間における不公平さによって軋轢を生み、余計なコミュニケーションコストが発生するリスクもある。そもそも喫煙者数は年々減少しているわけで、スケールメリットの観点からも限定的であると言わざるをえない。
さらに身も蓋もない指摘を重ねれば、これだけ喫煙者のイメージが悪化し、その健康リスクも広く知られているというのにもかかわらず、なお喫煙者である時点で、その人間はわざわざ社交の機会を用意するほどの人間ではない可能性が高い。社会的地位(職業階層や教育歴など)と喫煙率には明確な相関関係があり、社会的地位が低いほど喫煙率は高くなる傾向にあるからだ。
誤解しないでほしいのは、これは社会的地位が低い人間とは関わるべきではないと、そういう職業蔑視丸出しなことが言いたいわけではない。メリットとして社交の機会を挙げるのであれば、当然ながらそのメリットがもたらす効用がどの程度のものなのかは計測されるべきである。大雑把にいってそれはその社交の機会の質と量によって決まるわけで、質を測る指標の一つとして社会的地位が挙げられるだろう、という客観的事実を指摘したいまでだ。
賢明な、そしておそらくは非喫煙者である読者諸兄は、そろそろ察するころだろうか。そう、すべての喫煙メリットに反論する用意が筆者にはある。しかしながら、このままそのすべてを論じていると、いつまでたっても終わらないので、最後に経済効果を考えてみるとしよう。
たしかに一定の経済効果は認められる。話が煩雑になるので、ここではブルシット・ジョブ議論はさておき、タバコ税による税収は言わずもがな、タバコ産業は紙やフィルターといった素材の仕入れ、多くの広告や輸送によって成り立っている。産業に直接関係ないところでいっても、たとえばタバコを買いたいがためにふらりとコンビニに寄って、つい飲料や菓子類なども買ってしまう、なんてことは日常茶飯事である。こうした消費行動の喚起という意味でも、タバコは一役買っているといえる。
喫煙者が自らの愚行権を主張する上で、持ち出しがちな言い分ツートップの片割れに「われわれはちゃんと納税している」があるが、それは事実としてそう。
だが、この言い分には統計的思考が著しく欠如している。タバコによる経済効果を考える上では、なんといってもまず医療費増加との相関を見る必要がある。喫煙が明らかな健康リスクをともなう以上、当然ながらそれによる医療費増加との相関も考慮し、その損失を経済効果から差っ引かなければならない。
さらに、である。医療費増加についてはよく言われることだが、タバコのリスクはそれだけではない。見落とされがちなリスクとして、火災による損失がある。出火原因としてタバコは常に上位に位置づけられており、この損失も経済効果から差っ引く必要がある。他にも細かいところでいえば、清掃費増加なんかもそうだ。
そして、何よりも大きいのは、こうした健康あるいは火災リスクにともなう労働力損失である。重い病気になればそもそも働くこともできない。たとえ軽度の症状であったとしても、パフォーマンスダウンは避けられない。
さて、こうした経済効果と経済的損失をすべてひっくるめて試算するとどうなるか。試算によってその差額は変わってくるものの、どの試算も「タバコによる経済的損失はその経済効果を上回る」の結論で一致を見ている。つまり、喫煙者が「われわれは納税によって社会貢献している」などと主張するのは、ろくに統計的思考ができない人間の戯言である、ということだ。実際はタバコを吸えば吸うほどに、経済ひいては社会にダメージを与え、自らの身体をも蝕んでいるのである。まさに百害あって一利なし。
それにしても、なぜ喫煙者はこれほどまでに統計リテラシーが身についていないのだろうか。少なくとも筆者は、喫煙率と統計リテラシーの相関を調べた研究なんて寡聞にして知らない。が、体感統計としては喫煙者と非喫煙者とでは、明らかに喫煙者のほうが統計リテラシーが身についていない傾向にある。
これは確信をもってあえて断言するが、社会的地位と統計リテラシーにも正の相関が認められることだろう。現代社会をしたたかに生き抜く上で、もはや統計リテラシーは必須教養である。
ここで喫煙者が自らの愚行権を主張する上で、持ち出しがちな言い分ツートップのもう片割れを明かしておこう。それは「タバコを吸っていても病気一つせずに長生きした人はいる」だ。これこそが喫煙者の統計リテラシーのなさを雄弁に物語る傍証である。いったい何度この言い分を耳にしたことだろうか。統計リテラシーの身についていない人間は、例外なくこの過度な一般化の罠に陥る。こちとらそんなn=1かつ外れ値の話なんて、一切していないのである。
われわれの生来の素朴な統計的直感には欠陥がある。それを明らかにしたのが、かの有名な心理学者ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーである。
研究の中で彼らは95人の大学生にこんな問題を出した。街に大小2つの病院があるとする。大きい方の病院では毎日45人前後、小さい方の病院では毎日15人前後の赤ん坊が生まれている。当然ながら一日に生まれる赤ん坊の約50%は男の子だ。そして、どちらの病院も一年を通して男女の出生比率に偏りがあった日を記録していた。以上を前提として、学生たちに投げかけられた質問はこうだ。
「記録上、一日に生まれた赤ん坊の60%が男の子だった日は、どちらの病院で多かったか。大きい方の病院か、小さい方の病院か、どちらもほぼ同じか」
95人の参加者のうち、約8割にのぼる74人は大病院のほうが多い、あるいはどちらも同程度と回答した。ここで悪い予感がした人は鋭い。回答そのものは間違っているが、その予感は正しい。正解は小さい病院の方だ。
なぜそうなるのか。端的にいえば「サンプル数が多ければ多いほど、本来の確率に収束する」からだ。これは大数の法則として知られている。
コイントスを考えればわかりやすい。コインに何か細工でもされていないかぎり、表がでる確率も裏がでる確率も50%である。それでも10回投げた程度では、表が8回で裏が2回といったように、極端に偏ることもあるだろう。だが、これが1000回、10000回という風に試行回数が増えてくると、そのような確率のブレはなくなり、本来の確率へと収束していく。
先の設問では、とどのつまりどちらの病院のほうが確率のブレが観測できる可能性が高いかを聞かれているわけだから、答えはサンプル数の少ない小さい病院の方となるわけだ。
繰り返しになるが、現代社会をしたたかに生き抜く上で、統計リテラシーは必須教養である。だがしかし、なにも統計の専門家になれと言ってるわけではない。そりゃあ何事も磨かれているにこしたことはないが、お金も、時間も、あらゆるリソースは有限である以上、専門化でもないかぎりは実生活における効用と、学習コスト投下による限界効用の逓減を見極めて、どこかで見切りをつける必要がある。
そう考えると、そのハードル自体は決して高いものではない。先の設問をすんなりと正答できるようであれば、日常生活で困ることはほぼないだろう。
最後に恥を忍んで告白しておく。筆者は非喫煙者ではない。より正確には禁煙者である。つまり、元々はタバコを吸っていた人間なのだ。それも若い頃から吸っていた。若いといっても20代前半とかそういう一般的なレベルではない。むしろ、それは禁煙した年齢である。中学2年生すなわち14歳の頃から20代半ば頃まで吸っていた。そんなろくでもない経歴があるからこそ、その愚かさが身に染みてわかるのである。
禁煙してからというもの、十数年が経つ今となっては、本当にやめてよかったと思っている。頭脳は明晰に働き、血色はよくなり、気力に満ち、体力にあふれ、何よりもタバコの奴隷となっていた不自由きわまりない人生から、幾ばくかの自由を取り戻すことができた。それらの本質的な恩恵に比べれば、経済的な恩恵なんぞあってないようなものである。どれもこれもお金で買えるようなものではないのだから。
まかり間違って本稿を読んでいる喫煙者には、今すぐに禁煙することを強くお薦めしたい。他の誰でもないあなたがあなた自身であるために。