幸福の資本論を疑う
以前書いた記事で、資本の文脈から見た幸福の定義について述べたことがあります。
今回は、上掲の記事を読んでいただいていることを前提に話を進めますので、未読の方はぜひ読んでからまた戻ってきてもらえればと思うのですが、何かとみなさんお忙しいことでしょうから、最低限これだけは共有しておいてほしい箇所を引用します。
ご存知の方も多いかとは思いますが、あらためて簡単に解説しておくと、人的資本というのは、スキルや知識、経験といったその人自身に由来する資本のことです。社会資本は信用や評判、ネットワークや友人・家族関係などを指し、金融資本は言わずもがな現金、あとは株式・債権や不動産などもここに含まれます。
人生の8つのパターン
作家の橘玲氏は、これら3つの資本が幸福の土台(インフラストラクチャ―)であり、この条件がある程度揃った状態を幸福だと定義しています。その上で氏は、人生を8つのパターンに分けます。
このモデルが強力なのは、3つの資本とそのバランスという実にシンプルなモデルながらも、幸福という曖昧模糊とした概念を(ある程度まで)客観的に論じることが可能である、ということです。
それだけではありません。いくら客観的に論じることができたとしても、それがわれわれの生活に根ざしたものでなければ、何の意味もありません。針の上で天使は何人踊れるかを侃侃諤諤に議論したところで、われわれが生きるこの人生の幸福度は一切上がらないのですから。
その意味においても、このモデルは非常に強力だといえます。生まれてこのかた資本主義社会にどっぷり浸かって生きてきたわれわれにとって、3つの資本とそのバランスによって幸福を定義づけるこのシンプルなモデルは、もはや反論する気すら失せるほどの、たしかな実感をともなった有無を言わせぬ説得力があるからです。
実際問題、このモデルを人生の指針として合理的に生きていくことができるならば、少なくとも傍目から見て羨まれるような人生を歩む可能性は、飛躍的に高まることでしょう。その有用性を否定するつもりはまったくありません。これはこれで絶対にインストールしておいて損はない考え方です。
筆者自身もこのモデルを念頭において、今の自分に決定的に不足しているのはどの資本なのか、どの資本に時間を投下すれば最大限にレバレッジをきかせることができるのか、資本Aから資本Bへの変換効率と各資本の加齢による減衰率はどうか、などを常に考えながら日々の行動を選択しています。
土台の上に何を築くのか
いずれ機を見て筆者なりの幸福の資本論を体系的に論じたいと思っていますが、その前に理解しておいてほしいことがあります。それはなにかというと、あくまでこれは「"資本の文脈から見た"幸福論」だということです。
筆者がしつこいぐらいに資本の文脈であることを強調するのは、この幸福論がわれわれ現代人に対して有無を言わさぬ説得力を放つがゆえに、ともすればこれこそが万人に通ずる絶対不変の幸福の定義なのだと、そう捉えられかねないことを危惧しているからに他なりません。
これも再三にわたって言っていることですが、筆者は哲学者として生きることを推奨しています。そして哲学者たる者、こういう誰もが反論しえない前提ほど、なおさら疑ってかかる必要があります。
たとえば若いころから猛烈に働いて独立起業、事業を軌道に乗せて何不自由なく暮らせるだけのお金を手にし、最愛の家族と多くの仲間に囲まれている人間は、3つの資本が潤沢にあって社会的にも満たされているわけですよね。ということは、必然的に心身ともに健康でウェルビーイングが達成されるはずだと。
けれども、たとえそういう人であったとしても、心を病んでしまっている人なんていくらでもいます。し、ひいてはそれが身体の不調へとつながり、最悪の場合、自ら命を絶ってしまうケースを目撃することもままあります。
おかしいではありませんか。3つの資本がそろえば幸福になるんじゃないですか。幸福なのになぜ自ら命を絶つんですか。
一方で、たとえばインドの山奥でずっと瞑想して暮らしている聖者とされるような人を思い浮かべてみてください。彼らは3つの資本のいずれもほとんど持ち合わせておらず、定義上は不幸=貧困にあたるわけですが、少なくとも当人が不幸を感じているようには見えません。
むしろ、潤沢な資本を持ち合わせながらも、煩悩で絶えず悩みが尽きないわれわれよりも、よほど幸福に近いところに位置しているようにすら思えます。
おかしいではありませんか。3つの資本いずれもなければ不幸じゃなかったんですか。それともあれですか、そんなの少数の例外かつ極論であるとして、ばっさりと切り捨てますか。
少なくとも筆者にはそんな野蛮な真似はできません。なぜなら筆者は価値相対主義が煮詰まった現代に支配的な幸福観である「幸福なんて人それぞれ」に真っ向から異を唱える立場をとる者であり、たとえごく少数かつ極論であったとしても、たしかな反証があるならば、そのまま受け入れるわけにはいかないからです。
理論に現実を合わせるのではなく現実に理論を合わせる、それが知的誠実さというものではないでしょうか。
従来の経済学が個人の利益を最大限に引き出せるよう合理的な判断に基づいて行動するホモ・エコノミクス(経済人)を前提としているがゆえに、ろくに現実を説明できていなかったように、どれだけ理論に現実を合わせようとしたところで、その理論が現実に沿うものでなければ、見かけは立派かもしれませんが、その実ただただ空虚なだけです。
机の上でウンウン唸っているだけでは、現実なんて到底見えやしません。中学生の頃からパチ屋へと通いつめ……フィールドワークに出向いていた筆者にとっては、従来の経済学がろくに現実を説明できないのは、もはや当たり前のことでしかなく、いやそりゃせやろ以上の感想は湧きません。なんせそこには、従来の経済学が想定するホモ・エコノミクスなんて、多めに見積もっても1割にも満たないのですから。
若干、脱線しかけてしまった感は否めませんが、結局のところ何が言いたいのかというと、これら3つの資本がそろうだけでは人は幸福へと至れない、ということです。
これら3つの資本が幸福の土台であることに異論はありません。が、しかし土台はあくまで土台です。その土台の上にいったい何を築き上げるのか、これこそが真に幸福へと至るための鍵となる問いなのです。そして、資本の文脈から見た幸福論では、この土台の上に何を築くかまでは踏み込めません。
極論をいえば、たとえ土台がしっかりしていたとしても、その上に築いたものが幸福とはかけ離れたものであれば、その人間は幸福には至れません。逆にたとえ土台がしょぼかったとしても、その上に築いたものが幸福の真芯を捉えたものであれば、その人間は幸福へと至ることができるのです。
では、土台の上に何を築くべきなのか。これからそれについて述べようと思うと、あまりにも長くなってしまいますので、一旦ここらで切ります。
最後に簡単にではありますが、年末のご挨拶をば。この場を借りて、筆者の活動を追っていただいた方々に、あらためて感謝の意を表します。来年はより精力的に執筆活動をしていきたいと思っておりますので、よければ引き続きお付き合いいただけると幸いです。それではまた来年お会いしましょう。