ナンバーワンか、それともオンリーワンか
単に商業的成功を収めるだけでなく、時代を超えて世代を超えて人々に愛されるような曲には、その必然として幾ばくかの真理が内包されているものです。真理とは普遍であり、普遍であるからこそ、時代や世代を問わず多くの人の心を問答無用に揺さぶるわけですね。
トリプルミリオンの驚異的なセールスを記録し、名実ともに平成を代表する一曲となったSMAPによる『世界に一つだけの花』は、まさにそれを象徴する一曲といえるでしょう。2002年のリリースなので、もう20年以上も前になりますか。基本的に70年代フォークソングしか受け入れない親父が、当時やたらとベタ褒めしていたのを今でも覚えています。
作詞作曲は言わずとしれた槇原敬之ことマッキー。マッキーといえば例の度重なる不祥事を真っ先に思い浮かべる人も多いかもしれません。ただ、すでに法の下で裁きを受けているわけですし、アーティストの創造性と薬物の関係については、法的にどうこう以外にも様々な側面から語ることができるテーマなので、今ここでとやかく言うつもりはありません。
結論だけを言えば、彼はアーティストとして生きることを宿命づけられた一人であり、一時は薬物に逃げてしまうこともあったかもしれませんが、それでもなお本当に素晴らしい才能の持ち主だと、筆者はそのように思っています。
ちなみにマッキーの曲でもっとも好きなのは『GREEN DAYS』です。一見すると青春をテーマにした若者向けの曲ですが、世の甘酸っぱくもほろ苦い思い出を歌った青春ソングとは一線を画しています。
『GREEN DAYS』で表現されているところの青春とは、自分と、他者と、そして世界と真摯に向き合った人だけが通過できるものです。はたしてどれだけの人がその青春を謳歌できているでしょうか。筆者が見るにそんな人はごくごく少数です。そういう意味では、全世代が五体投地しながら耳を傾けるべき一曲でありましょう。いやさすがマッキー、何を歌わせても深みが違う。
というわけで、わからないことだらけでも、ほんとのことだけ探していきましょう。
最大のヒット要因
話を『世界に一つだけの花』に戻して、1999年に覚醒剤取締法違反容疑で逮捕されたマッキーは、自分を見つめ直して仏教と出合います。それまでは私小説的な作風でしたが、これを機により射程を広げた人生をテーマとする作品を手掛けるようになり、その成果が本曲でした。
こうした制作過程を鑑みると、本曲が幾ばくかの真理を内包し、時代を超えて世代を超えて愛される名曲となったのも、半ば必然だったといえるのかもしれません。
が、しかしはたしてそれだけでトリプルミリオンを記録できるものでしょうか。ミリオンヒットぐらいならいざしらず、トリプルミリオンですからね。もちろんミリオンヒットでも十二分にすごいことなんですが、数々の記録を塗り替えた歴史的セールスを紐解くには、やはり説明不十分と言わざるをえないでしょう。
では、本曲の何がそうさせたのか。表面的な要因はいろいろあれど、つまるところ筆者は「大乗」にあると考えています。
マッキーが出合って本曲のベースになった仏教は、大きく「大乗仏教」と「小乗仏教」の2つに分かれます。
深入りすると戻ってこれなくなるので、ここではあくまで噛み砕いて説明するに留めますが、大乗というのはその字面が指し示すとおり、大きな乗り物のことです。つまり大乗仏教とは「大きな乗り物で全員の救済を目指す仏教」のことです。小乗仏教はその逆で「小さな乗り物で個人の救済を目指す仏教」ですね。
(ただし、小乗仏教というのは、あくまで大乗仏教サイドからの「そんなんじゃごく一部の限られた人しか救われんやんけ」のディスり文句であり、正確な呼称は上座部仏教になります。本稿では文脈を重視して、あえて小乗仏教の呼称を用いていることに留意してください)
大乗仏教と小乗仏教、これはどちらが優れている劣っているとかではなく、どちらにもそれぞれ特色があります。
教えのわかりやすさ、教えのとっつきやすさ、教えの実践難易度などは、圧倒的に大乗仏教サイドに軍配が上がります。有り体に言ってしまえば、仏の教えを大衆性によってモディファイしたのが大乗仏教ですから。しかしながら、その必然として仏の教えに忠実かというと、やはり微妙なところがあります。
そして、これは仏教に限ったことではありませんが、大衆性を帯びることによって、本質から逸れてしまいがち問題も散見されます。「拝めば救われる」なんてのはその典型ですね。いや、普通に考えてそんなわけないやろと。長年かけて開いた悟りの内容、いくらなんでも雑すぎひんかと。だったらもうそのまま菩提樹で寝とけと。
けれど、そんなわけないことが瞬時に理解できるだけの素養もなく、それゆえ盲目的に信じて茶番にすがりつこうとするのが大衆というものです。筆者としても、決して小馬鹿にしたいわけではなく、ただただその残念さを嘆くばかりではありますが、これまでのあらゆる歴史が大衆の残念さを証明している以上、それはそういうものとして受け入れざるをえません。
一方で小乗仏教は、厳格に戒律を重んじるので、仏の教えに忠実といえば忠実です。が、しかし教えに忠実すぎて今度は誰もついてこれません。特に現代人にとってはなおさらそうでしょう。そもそも出家して修行し、悟りを開くのが前提になっていますから。いや、出家て。ビッグテックが社会をけん引し、いたるところで宗教離れが叫ばれているこんな時代に出家て。それが現代人の偽らざる本音でありましょう。
さらに教えに忠実であろうとするあまり、教条主義に陥りがち問題も散見されます。みなさんの周りにも一人ぐらいはいるんじゃないでしょうか。何かと「そういう決まりだから」や「ここにそう書いてあるから」をゴリ押してくる融通のきかない人間が。いや、それはこちらも重々承知しているが、もっと現実を見ろよと。
現実を直視せずに適応を拒めば、待ち受けるのは衰退のみです。手垢まみれのダーウィンの言葉を引くまでもなく、現実とは絶え間なく変化する環境に他ならないのですから。事実、小乗仏教を支持している人なんて、少なくとも現代日本においては専門の研究者ぐらいのものでしょう。
このようにそれぞれ特色があって、優劣を論じるのはとても難しいわけですが、ここで筆者が声を大にして言いたいのは、『世界に一つだけの花』は間違いなく大乗曲である、ということです。
歌詞を見れば一目瞭然ですよね。何も難しい表現なんてありません。たしかに花は比喩とはいえ、もはやこれを比喩であるとするのを憚られるほどに、誰もがすんなり理解できるドストレートな表現です。しかもその歌い手は国民的アイドルグループであるSMAP。とくれば、これが大乗曲でなかったら、一体何が大乗曲なのかという話でしょう。
幾ばくかの真理を内包しているだけでなく、それを思いっきり大乗側に寄せて表現したこと、これこそが本曲がトリプルミリオンを達成した最大の要因であるというのが、筆者の大筋の見立てになります。
大乗ゆえの弊害
しかしながら、本曲もまた大乗ゆえの弊害を乗り越えることができず、先述した本質から逸れてしまいがち問題に直面することとなりました。冒頭で引用したフレーズだけが一人歩きし、都合よく解釈してうだつの上がらない自分を慰める人が大量発生してしまったのです。
ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン。たしかにそれはそうです。これは遺伝子レベルでもそうですし、生まれ育った環境や歩んできた人生という意味でもそうです。
あらゆる文脈において、わたしたちは一人一人が異なっており、そういう意味では誰もが特別なオンリーワンといえます。である以上、他者と比較して疲弊するなんてアホらしいのも、その通りでありましょう。まったくもって同感です。
まったくもって同感ではありますが、世の中を見渡してみると、この部分だけを都合よく切り取り、真意を掴み損ねている人が本当に多い。誤解してはいけないのは、だからといって何の努力もせずにあなたはあなたのままでいいんですよ、と言っているわけではありません。歌詞にもちゃんとそうありますよね。
その花を咲かせることだけに、一生懸命になればいい。実に耳心地のよい歌詞です。が、その耳心地のよさに惑わされてはなりません。これは言い換えれば「何の努力もしなければあなたは種のままですよ」ということに他ならないのですから。美しい薔薇にも棘があるように、美辞麗句の裏には往々にして残酷な現実が隠されているものです。
以上を踏まえた上で、ぜひもう一度歌詞をじっくり読んでみてください。歌詞の中で賛美されているのは、いつだって”花”であって”種”ではないことに気付かれるはずです。種については、あくまで一人一人違う種を持っていますねと、事実をそう指摘しているにすぎません。
大衆というのは、いつの時代も基本的に努力を嫌います。大衆論の古典である『大衆の反逆』を著したスペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883-1955)に言わせれば、「みんなと同じであることに苦痛を覚えないどころか、それを快楽として生きている存在」こそが大衆であるわけですが、それゆえ主体的に何かを努力して自己を育もうなんて気はさらさらありません。
また、オルテガはこうも言っています。「なんら自らに義務や制約を課すこともなく、そのくせ権利だけは一丁前に主張する」のが大衆であると。
こうしたオルテガによる大衆論は、本曲の耳障りのいいフレーズに酔い、自己を育む努力を放棄しているがゆえにうだつの上がらない自分を慰める道具とし、ありのままの自分を受け入れてほしいなどという、脳内お花畑にしか決して咲くことのない権利を、さも当たり前かのように主張している多くの人たちを見ると、つくづく大衆というものの性質を鋭く抉りとっているなと感じます。
物語なき時代に
われわれが生きている今まさにこの時代は、近代の後すなわちポストモダンと表現されます。そしてポストモダンにおける「大きな物語の終焉」を喝破したのが、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタール(1924-1998)でした。
これはどういうことなのかというと、平たく言えば「みんなが共有できる価値観がなくなったよね」です。
卑近な例をあげると、偏差値の高い学校に入って、安定した大企業に勤め、結婚して子供をもうけ、マイホームを35年ローンで買って定年まで過ごし、あとはゆったりと余生を過ごす、そういう一昔前にみんなが共有していた大きな物語が崩壊し、多くの人がどう生きるべきかわからずに彷徨っている時代だということです。
この大きな物語の終焉もまた本曲の歴史的セールスを紐解く上で、欠かすことのできない重要な時代背景です。リオタールが著書『ポスト・モダンの条件』で大きな物語の終焉を喝破したのが1979年で、『世界に一つだけの花』が2002年のリリースですから、約20年ちょっと経過していることになります。
歴史にその名を刻むような哲学者というのは、誰しも大なり小なり先見の明があるものですが、リオタールも例外ではありません。
約20年ほど経過することで、ようやく大衆にも大きな物語の終焉が自覚されはじめ、自分を見失って不安の中を生きている人が大量に溢れかえっている中で、ばちくそ大乗側に寄せた本曲のメッセージ性がぶっ刺さったであろうことは、想像に難くないでしょう。
付記すれば、オルテガいわく「みんなと同じであることに苦痛を覚えないどころか、それを快楽として生きている存在」が大衆なのですから、大きな物語が終焉してしまうと、余計に大衆は何もしなくなります。「みんながやっているのであればしゃーなしやるか」すらなくなってしまうわけですから。
つまり、大きな物語が終焉して以降、ろくすっぽ自己を育もうとしてこなかった大衆は、ますます怠惰の一途をたどっているわけですね。
筆者の肌感覚としては、今はまさにそれが極まっているように感じています。これはたとえばスピリチュアル界隈なんかを見れば一目瞭然で、少しでも努力を匂わせるような言説は、界隈ではまったくもって支持されません。界隈で多くの人に支持されるのは「あなたはあなたのままで十分魅力的で唯一無二なんですよ」とする言説です。
もはや”花”の概念すらなくなってしまい、お互いがお互いの”種”を褒めたたえ、一向に水をやろうとしない。そんな地獄のような光景が、界隈では繰り広げられています。言うまでもないことですが、そんな彼彼女らは幼稚で、未熟で、人間的魅力にとぼしい人たちです。そりゃそうですよね。”種”のままなんですから。
そして、こうした時代の変遷、それにともなう大衆の変遷に適応できない伝統宗教や新新宗教が、目に見えて衰退していっているのも、必然の結果でしかありません。
幸福のための水やり
ここまでずっと"努力"という言葉を用いてきました。種のままではいけない、努力して花を咲かせてなんぼなのだと。ただ、実をいうとこれは誤解を招きかねない表現なので、もっと適切な表現はないものかと思案しながら本稿を書いています。
というのも、努力というとどうしても多くの人は「辛さや苦しさを乗り越え歯を食いしばってするもの」のイメージがあると思うんですね。けれど、そうじゃあないんです。ここでいっている努力というのは、それ自体が目的となりうるもので、あくまで本人がやりたいからやるものです。
自分という種に水をやり、花を咲かせていく過程は、何物にも代えがたい楽しさ、喜び、充実感があります。だからこそ、誰に何を言われずとも自発的にやりたくなるのです。
幸福とはなんでしょうか。人それぞれ答えは違うでしょうが、本稿の文脈に沿った筆者なりの答えは「自己を育もうと没頭するその一瞬一瞬」です。
誤解している人が多いですが、幸福とはある状態への到達を指し示すものではありません。何かしらの条件がそろえば幸福というものでもありません。あくまで瞬間の積み重ねであり、その過程を指し示すものです。それゆえ幸福に完成はありません。どこまでも続く自己成長の旅路、これこそが幸福の正体です。
こうした幸福の正体をもっとも体系的に論じたのは、筆者が知るかぎりでいえば、古代ギリシャの哲学者アリストテレス(前384-前322)でしょう。
アリストテレスによれば、人が生きる目的は最高善(エウダイモニア)にあります。最高善とはすなわち幸福のことです。つまり幸福こそが人間の生きる目的にあるといっているわけですね。聞きなれない概念を用いているだけで、内容そのものは現代においてもあちこちで言われていることですし、別に傾聴に値するというわけではありません。
アリストテレス哲学がユニークなのは、その最高善へと至る手段を卓越性(アレテー)に求めたことです。
最高善へと至る手段としての卓越性、これをわかりやすく説明するためのモデルケースとしては、存命の人物では藤井聡太(敬称略)がもっとも適任ではないでしょうか。将棋界において、彼が類まれなる卓越性を発揮していることに、異論を唱える人はもはやいないかと思います。藤井聡太という存在を語るにあたって、将棋は切っても切り離せないものです。
では、彼は本当は嫌で嫌でやりたくないのに、将棋を続けて数々の偉業を成し遂げたのでしょうか。絶対に違いますよね。彼にとって将棋は、他の何よりも自然と没頭できるもので、その道を極めんとする過程に意義を見出すことができるものだったからこそ、結果としてあれほどの偉業を成し遂げたわけです。
仮に藤井聡太がどこかの会社に勤めて営業に配属されたとしましょう。そうなると、本来彼がもっている種に潜んだ卓越性が、まったくもって発揮されないであろうことは、火を見るよりも明らかです。それは藤井聡太という存在の損失であり、ひいては世界の損失でしかありません。
インタビューなどを見ていると、彼は本当に幸福に向かってまっすぐに生きているんだろうなと感じます。純粋に愛することができる対象に没頭し、その過程で人格も陶冶され、卓越性を発揮することで社会にもよい影響を与えている。それでいて結果に対して必要以上に囚われることもない。これこそが最高善へと至る手段としての卓越性の理想形といえます。
アリストテレスは種に潜んだ卓越性の花を咲かせることを、エネルゲイアという概念で整理しています。そして、われわれが幸福に生きるための最大の鍵は、このエネルゲイアにあるといっても過言ではありません。
何度も言うように他人と比べて競争し、ナンバーワンを目指す必要はありません。けれども「自分は自分に植えられた種を開花させる」ことに関しては、ナンバーワンを目指さなくてはなりません。他人と比べてではなく過去の自分と比べて、です。
そういう意味では、ナンバーワンかオンリーワンかの二者択一ではなく、ナンバーワンかつオンリーワンを目指すべきです。本曲の歌詞では対立関係として表現されていますが、エネルゲイアを念頭に自分史上ナンバーワンを目指していれば、必然的にますますオンリーワンに磨きがかかっていくるわけですから、あくまで両者は相互補完的な関係にあるといえます。
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