『担当』と『推し』の概念と成仏②
『推し』
この言葉と出会った私は、
同時に女性アイドル戦国時代の始まりと出会った。
AKB48との出会いである。
確か、高校生の時だった。
生まれてからずっと育ってきた片田舎では、
都会の流行は少し遅れて入ってくる。
華のJKといえど、所詮田舎のJK。
当時はSNSも発展途上で、
折りたたみ携帯が主流だった。
厳密にはこの時、女性アイドル=女子ドルとの出会いは
2度目だった。
1度目はジャニーズと出会うよりも前、
小学校低学年の時、モーニング娘。だ。
とはいえ当時のモー娘は一世を風靡していたので、
ミーハーな私が出会うことも好きになるのも当然だった。
でもその後ジャニーズという巨大勢力に魅了され、
女子ドルは根っこの部分で好きではあっても
少し離れてしまっていたのだった。
そして2度目の出会いとなるAKB48。
今考えれば、関ジャニ∞のファン=eighterとしての自分が
定着し、安定してきている時期だった。
このような私個人の歴史背景はしっかりある。
でも、傍から見たらやっぱりミーハーの極みだと思う笑
AKBが一世風靡する一歩手前で私の女ヲタ人生はスタートした。
ここまで5年以上ジャニヲタをしてきた私。
たかだか5年だが、
ウブな16,7歳の私にとって、
5年も付き合った彼氏はもちろんいなかったので
これまでの人生から見たら
かなり長い年月でジャニヲタをしていた気持ちだった。
この時にはもう前述(①)の『担当』制度には定着しきっていた。
そんな中で投げ込まれたもの。
それが『推し』制度である。
私の1度目の女子ドルとの出会いであった、
モー娘は偉大だった。
モー娘が今に繋がる女性アイドル像を見事に作り出していた。
それが「大人数」と「メンバーの入れ替わり」だと思う。
メンバーは多くても10人以下、
(あくまで当時の基本は)一度デビューし人気が出たら、
解散するまで人員変更がないジャニーズとは仕様が違う。
さらに、女性ファンが中心のジャニーズに対して
やはり女子ドルは男性ファンが多い。
女性と男性が作り出す文化もまた異なっていた。
そんな世界で生まれた『推し』制度。
「この子に注目して欲しい!」
「この子に活躍して欲しい!」
「この子に長くグループにいて欲しい!」
「この子に認識(いわゆる認知)してもらうファンになる!」
そんな想いで一番好きな子を「オススメする」=「推薦する」=推す。
推す対象=『推し』
これに対して
「存在が気になってついつい見ちゃう!」
「一番カッコイイ!」
「この人が好きです!」
そんな想いで名乗る「○○くんのファン」=「○○くんだけ見ている」=「○○くん『担当』」
うん。違う。
組織の形が違うのだから、
応援スタイルやタレントとファンの距離感も違う。
これが私がジャニヲタと女ヲタを兼任してからの
10年以上感じ続けている違和感だ。
「『担当』と『推し』は違うもの」
というだけで終われば、
今回の「成仏」とかいう大袈裟な表現はしない。
問題はAKB48から発信された(であろう)
『推し』の概念が
ジャニヲタ文化の『担当』制度の何倍も
世間に広まっていったということである。
少し、話が変わるが私はTwitterが好きだ。
Facebookのようなかしこまった内容でなくても
Instagramのようなオシャレな内容でなくても
2ちゃんねるのようなとんがった発言力がなくても
誰でも自由に好き勝手に140字まで呟ける。
見たくなければミュート、
見られたくなければ鍵をつけたりブロックしたり、
ネット上の自分の部屋だと思っている。
ネット上の自分の(意見の)お店としている人も多いだろう。
とにかく、なんだか自由なイメージがある。
でも140字、動画なら140秒という縛りもある。
表現は自由だけどその範囲が決められている。
私の嗜好にピッタリなんですよねー。(?)
そんな好きなTwitterで「動画日記」を残している
Vanessaさん(@hsm_0715)の動画を見て
今回の『推し』の勢力の大きさを感じた。
意訳となるが許してほしい。
彼女は星野源と羽生結弦のファンを公言している。
(もはや認知されている。彼女自身の才能はもちろんあるがTwitterドリームだと思う。)
でも彼女は言った、
「ファンというのはおこがましい。(たぶん彼らが素晴らしすぎて、かつ、ガチでお金を落としているファンと比較して、)私なんぞがファンを名乗るのは恐れ多いので『推し』という存在にすることで上手くバランスが取られている。星野源のファン、羽生結弦のファンとするのではなくて『推し』として応援している」
と。
私は思った。
「AKBやべぇな、、」
と。※褒めてる
AKBは一世風靡し、国民的なものとなったことで、
良い意味で手軽な存在になった。
それに伴う『推し』という概念もまた、
ライトに名乗りやすいものにしたのだな。と。
ジャニーズの文化は深い。
よってこの文化を楽しむにはそれ相応の覚悟がいる。
私はできる限り身近な人にはジャニヲタであることを知って欲しい。
ジャニーズは私のライフワークであり、
ジャニヲタであることがアイデンティティーなのだが、
ジャニヲタに対する世間の偏見があるのも分かっている。
だから、ジャニヲタを隠す人も多いだろう。
よってジャニヲタ文化に根付く『担当』という概念もまた
同じ重さがあるのだと思う。
私はもはやこの重さも好きだ。
この重ささえも誇りなのだ。
でもこれは沼にハマって抜け出せない、
抜け出す気もない人間の考えだ。
そうでない人間にはやはり「重い」。
だから『担当』という概念がヲタクの世界から離れて
世間一般に溶け込まないのは理解ができる。
加えて、男と女の生き方も違う。
いくら男女平等社会といえど、
基本的には子供が産める体の女とそうでない男では
「アイドル」=「偶像」としての生き方も違う。
反感を買うかもしれないが、
賞味期限が違う。
歳を重ねることで求められる価値が違う。
だから、男性アイドルは長く応援してくれるファンのために頑張って欲しい。
アイドルをする中でも生物上の男としての人生を重ねることはできると思う。
一方で女性アイドルはファンを考えつつも自分のために頑張って欲しい。
アイドルのままでは生物上の女としての人生を重ねることは難しいと思う。
だから『担当』は「重い」が
『推し』は「儚い」のだ。
「重い」に対して「軽い」という言葉は女として出したくなかった。
でも、その儚さが手軽さでもある。
どんなに推しても女子ドルは自分のためにアイドルを辞めるのである。
これこそが『担当』という概念では成し得なかった、
『推し』という概念が持つ力であると思うのだ。
話は冒頭近くに戻る。
AKB48から始まった女性アイドル戦国時代は、
一大勢力となっていたジャニーズよりも
世の中に大きな影響を与えた。
その中で生まれた概念もまた、一般的なものとして定着してきた。
それが『推し』である。
そして世間はその『推し』という概念を
アイドルに限らず全ての物事に多用した。
ここで終わればいい。
そうじゃない。
全ての嗜好に『推し』という概念を当てはめることにより、
巡り巡ってジャニヲタ文化にも入り込んできたのである。
ここからが今回私が「成仏」させることにした、
『担当』と『推し』の概念の混在、
伝統や文化に固執してしまいがちな
私個人の混乱の始まりである。
最初は抵抗していた。
でも抵抗し続けるにはエネルギーが必要で、
少し疲れてしまった。
だから今こそ
"故きを温ねて新しきを知る"時である。
やっと本題に入る。
しかし、次に続こうか。。。