【Ne-Ti的】”ちいさい秋みつけた“は何故怖い? 歌詞からガチ考察してみた
こんにちは!のりだよ〜⬛︎(´▽`)
ちいさい秋の歌詞の考察をしたので、それを書き起こす!
(以下全て個人の解釈です!)
歌詞
考察ポイント
・人間について書かれた歌詞って「同じ場所で同じ時間にいる複数人について描写」か「1人の人物の異なる時間や場所での言動についての描写」がされてると思う。歌の1-3番は全て異なる時間と場所で発生している。よって、1-3番の誰かさんは、それぞれ別人なのではなくて同一人物について書かれている。
・自分以外の人間が「誰かさん」の場合は、自分が「誰かさん」に抱く感情とか、逆が書かれると思う。それが一切無いから、この「誰かさん」は自分なのかなあと。・・・(A)
・「誰かさん」って普通は「皮肉的なYou」の意味合いで使われると思う。(誰かさんはこう言ってたけどね?みたいな) あえて自分を「誰かさん」って言うのはやや自己否定的な印象。・・・(B)
・「ちいさい秋」とは、目隠し鬼→もずの声、お部屋→秋の風、風の鳥→かぜの葉、みたいに一種の身近さがある事柄と秋特有の事柄を紐づける事から「身近な秋」に近い意味合いと考えられる。
・「身近な秋」をあえて「ちいさい秋」って置き換えるの、自分の価値をちいさく見てるからこそ、そこから見える景色が「ちいさい」の認知になるのかなとか。「ちいさい」がよく含む他のニュアンスとしては「可愛い」もあると思うんだけど、(B)の自虐めいた印象と紐づけると、一見ポジティブなように見えて、実はネガティブな意味合いかなとか。・・・(C)
・(A)と(B)の解釈が自然に感じるからこそ、1-3の「誰かさん」は作者なんだろうな〜って思ってる。(C)で同じ事言ってるけど、こっちは結果から逆算してる。・・・(D)
・ちなみに、(A)では書いてなかったけど同一人物の「誰かさん」が「実在しない第三者視点=いわゆる神の視点」も候補だったけど、(D)から「誰かさん」は作者の解釈をしてるかなあ。(ここ、ちょっとツッコミポイントあるので後述)・・・(E)
・ちいさい秋「みつけた」という動詞の統一は、聞くや感じるといった、その時点の感情ではなく、当時より後の視点で俯瞰してるイメージ。(歌詞だから耳に残りやすいように、とかもあるかも)
・この俯瞰的立ち位置が、歌詞の怖さを曖昧にしてる感じはある。「見つけましたよ」って事実の提示の形を取る事で、歌詞全体について、作者が冷静印象ポイントを稼いでるように感じる。・・・(F)
・(E)のところで「ん?第三者視点もあるんじゃない?」って思った人。
…分かるーーーーーーーっっ()
(F)の俯瞰は第三者視点であることの要素にもなり得るし、3番目はさておき、1、2番目って子供について書かれてるけど、その時に大人?の作者が子供を見てるんじゃ無くて、子供に第三者視点が纏わりついてる方が自然とも読めるんだよね。何故なら仮に作者とすると、作者と子供の精神的交流の描写が一切省かれてるから。
うーん、、、ただなあ、1-3全てで冒頭「誰かさんが〜秋見つけた」とか最後に「〜見つけた」ってかなり同じ形を被らせてくるじゃない?割と神経質な歌詞だなって思う。だから、そんな歌詞で3番目だけ急に視点が変わるとかあるのかなあ、、、。第三者視点というよりは、人と物の間で感情的思い入れに大きな差分のない人物からの視点だからこそ、淡々と子供と景色を同列に置いてる、ってのが一番しっくり来てるんだよね。
・2番目が何故子供について書かれていると思うのか。これ↓
まとめ
まとめるのはめんどくさいので、誰かまとめてーーーーーー!!!笑
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