プラザ合意の裏側。日本が自国に不利な円高政策を進んで受け入れた理由。
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では、ここから本題です。
今回はプラザ合意の裏側について解説したいと思います。
そもそもプラザ合意とはなんでしょう?
プラザ合意とは1985年9月にG5(米国、英国、フランス、西ドイツ、日本)で協調して米ドル安政策を行うことを合意したものです。
もっというと、当時対米経常黒字の大きかった日本の円と西ドイツのマルクに対するドル安政策です。
ちなみに当時のドル円レートは1ドル250円でした。
プラザホテルで合意されたのでプラザ合意と言います。
プラザ合意後、ドル円レートは急激に円高にふれました。。
なぜドル安政策がG5で合意されたのでしょうか?
それは米国の慢性的な経常赤字を解決するためです。
また、イギリスやフランスにとっても、日本やドイツの輸出競争力をそぐ効果のある円高・マルク高政策というのは都合がよかったのです。
普通、経常赤字が続くと自然とドル安になるはずですがなぜならなかったのでしょう?
これは当時、日米金利差が拡大していたからです。
米国は積極財政のもと景気も上向きつつある中、実質金利が高止まりしていました。
一方、日本では財政再建目標の下、緊縮財政をしており、内需は低迷し実質金利が低下していました。
このような経済環境の中、日米金利差が拡大し、ドル買いが進み円安ドル高となっていたのです。
米国はなぜそこまでして経常赤字を解消したかったの?
継続的な経常赤字とはつまり、米国は自分たちが海外向けに生産する以上に海外製品を消費をしているということです。
つまり米国は、ハンバーガーを手渡す代わりに、ビッグマックを手に入れているようなものです。
こんなことをずっと続けていると、海外製品を買うために対外債務は膨らみますし、ドルを売って外国通貨を買うという売買が大規模におこなわれて、最終的には急激なドル安にならざるをえません。
それによって経済のハードランディングが避けられないと思われていたからこそ、米国は必死に経常赤字解消を模索していたのです。
とは言ってもそれは米国の都合。
なぜ日本は自国に不利な円高ドル安政策を受けたのでしょう?
実はこのとき米国から、日本にとっての対米経常黒字(米国にとっての対日経常赤字)を縮小しないと、日本からの輸入に関税などの規制を強化すると脅されていたからです。
ここで米国が強く求めていたのは、
日本における輸入規制の緩和
日本国内の内需拡大によって輸入を増やし経常黒字を縮小させること
でした。
ではなぜ日本は円高ドル安政策を受けたのでしょう?
当時の日本は米国の要求に応じて、輸入規制の緩和を大胆に進めました。
ところが内需拡大政策はかなり中途半端でした。
当時の日本は国債残高が右肩上がりに積みあがっている中、財政健全化の流れがあったのと、1970年代の長く続いた高インフレ時代からようやく抜け出せた直後ということで、巨額の財政支出を伴う内需拡大に積極的になれなかったのです。
このような日本の中途半端な対応に米国側は業を煮やし、米議会では対日報復法案が続出し、日本に対する貿易規制強化の機運が頂点に高まりつつありました。
このような米国の動きに対し、危機感を感じたのは日本の輸出産業の大企業たちでした。
彼らは、米国のそのような保護主義的動きを回避できるのであれば、多少の円高は歓迎するという姿勢を見せたのです。
当時のドル円レートは1ドル250円でしたが、購買力平価に基づく計算では1ドル160円程度が妥当と計算されていました。
円高で打撃を受ける輸出企業にとっても、ある程度の円高は恐れるに足らなかったのです。
それほど、当時の輸出企業というのはぼろ儲けしていたのでしょうね。
そのような産業界の理解もあって、日本政府は、積極財政による内需拡大より、為替介入による円高誘導を選好していくようになりました。
このような背景もあり、1985年9月のプラザ合意の際、日本に対しあくまで輸入規制緩和と内需拡大を求める米国に対し、日本は”自ら”協調的な円高政策を提案したのです。
この日本の提案は、他G5諸国から驚きをもって評価されました。
米FRB議長なんかはこんなコメントを残しています。
「会合で私が最も驚いたのは、竹下大蔵大臣が円の10%以上の上昇(円高)を許容すると自発的に申し出たことである。彼は我々が予想していたよりもはるかに前向きであった。竹下大蔵大臣の態度が、他の参加者をも驚かせたことは確かであり、このことは会議の成功に非常に重要な影響を与えた。」
当時の日本が想定していた円高は10%~15%程度でした。
ところがプラザ合意からたった一年で40%も円高が進むとはこの時誰も予想していませんでした。。
元々構造的には円高ドル安方向のマグマがたまっていたところへ、協調的な円高政策が行われたことで急速に円高が進み、一度進みだした円高を止めることができなかったのです。
プラザ合意前、1ドル250円程度であったドル円は、翌年の1986年に150円台まで円高になりました。
そのような中、日本企業の輸出競争力は削がれ、その後のバブル崩壊、長期低迷に至ったのです。
一部の経済学者は「日本の長期低迷の元凶はプラザ合意だった」とまで言う人もいるほどです。
変動為替相場では、いくら介入しようと長期的には、為替レートは市場が決めるので、一時的な為替介入が長期低迷の元凶というのは言い過ぎだとは思いますが、に収斂していくので、結果的に円高方向にふれていたとは思いますが、短期間の急激な円高が日本経済に大きなダメージを与え、それが後遺症的に長期にわたって日本経済の足を引っ張ったというのはあるかもしれません。。
ということで、プラザ合意において、日本が進んで円高政策を受け入れた根本的な原因は、財務省の緊縮財政路線といえるでしょう。
ここで積極財政をして、内需を拡大し、対米経常黒字を縮小していれば、わざわざ人為的な円高政策をする必要はなかったのです。
積極財政に踏み切れなかった当時の財務状況を見てみましょう。
1985年の国債残高は134兆円、GDPは340兆円、インフレ率2.04%。
ちなみに2021年の国債残高は1004兆円、GDPは542兆円、インフレ率-0.26%。
国債残高の対GDP比による議論は、その時点での過去との相対比較になるのであえてここでは言及しません。
論点はインフレ率が2.04%であったこと。これは1970年代のインフレ率が平均10%弱で推移したこともあって、ようやく落ち着いた時期でもありました。
そこへ積極的に財政を出すとまた厄介な高インフレ時代になりかねないという不安は確かにありますね。(ただ、積極財政を輸入規制緩和とセットで行えば、もしかしたら積極財政をしていても高インフレにはならなかったかもしれませんが)
であれば、行き過ぎた円安水準を少し妥協する方がましじゃないか、というのはわからないでもない。
というか、本来経常黒字や経常赤字というのは為替レートで調整されるべきでもあるし。
ということで、経常収支不均衡を為替介入によって調整しようとした日本の決断はそこまで責められるものではないかなという印象。
但し、それが急激すぎたというのがプラザ合意の失敗だったのではないかと思います。
なぜここまで急激に円高が進んでしまったのかはまた別の機会で解説します。
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