【エデン条約編第3章】少女たちに「幸せであるべき」と願うこと
※本記事は卯月コウ氏のエデン条約編第3章完走を記念して投稿されたものです。
が、氏の要素はごく一部にとどめてあり、氏を知らない方でも不自由なく読んでいただける内容となっております。(逆に氏の要素を求めている方には不向きな内容かもしれません。ですが、同時に氏に関心のある方なら興味をもっていただける内容かと思います)
本記事は私自身がエデン条約編第3章読了時点で思っていたことを草案としており、先の展開を明示する旨の内容については記載しておりません。
エデン条約編第3章を完走して、なにかネットのテキストに触れたい!と欲求を抑えられない方。氏の配信にて、ここまで氏とともに物語を駆け抜けてきた方。インターネット・ブルアカ=テキストを貪り食うことを生としている方。どなたも分け隔てなくお楽しみください。
それともう一つ。先に言っておきますが、かなり長いです。宜しくお願い致します。
本記事には以下のネタバレが含まれます。
─────────────────────────────────────────────
・メインストーリーvol.1 対策委員会編 ~第2章20話
・メインストーリーvol.2 時計じかけの花のパヴァーヌ編 ~第1章20話
・メインストーリーvol.3 エデン条約編 ~第3章25話
・魔法少女まどか☆マギカ
・劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語
─────────────────────────────────────────────
※まどマギの分析がとんでもなく甘い上に、記事の構成上断定的な物言いをしている箇所が多数あります。「こいつはまどマギのことこう思ってるんだな」くらいの心持で読んで頂ければ幸いです……
「女の子はみんな幸せであるべき」。
オタクなら誰しも一度は唱える理想論。引用に用いた氏は様々な熟考の末、この結論に辿り着いた。
少女の幸福を祈るのはオタクの特色と言える。美少女コンテンツに関心のない人は、少女の幸せを祈らない。作品に触れていない時間なら、猶更。
では果たして。女の子はみんな、幸せであるべきなのか。
本記事ではブルーアーカイブという作品を『祈り』を軸に解体する。他作品にはなるが、まずは足がかりとして「魔法少女まどか☆マギカ」で描かれた祈りについて触れておきたい。
1.世界の本質;まどか☆マギカ概論
かの名作『魔法少女まどか☆マギカ』で円環は、不幸せな少女を回収(或いは、抹消)することで「全ての魔女を生まれる前に消し去りたい」「希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない」というまどかの祈りを叶えた。しかし一見して美しく純真な祈りは、実際には不幸せな少女の否定を選んだ。
「幸せであるべき」とは、その願いとは裏腹に強い否定を秘めている。
幸せであるべき。要するに「幸せでなくてはならない」。
そんな非現実的な祈りがシステムに組み込まれたら。そういった絵空事を、まどか☆マギカは実行した。
システムとなったまどかは円環として、自身の願いのもとで、魔女化する(幸せではなくなった)少女たちを慈悲の名のもとに抹消した。これにより、少女たちは呪いで満ちて不幸せ(魔女)になる前にその一生を終えられる。これは残酷なことではないだろうか。
まどかによる改変世界には、つまるところ幸福な魔法少女しかいない。これは裏を返せば「不幸な魔法少女は存在を許されない」ということになる。
鹿目まどかが救ったのはかつて祈りを胸に抱いた魔法少女たちであり、呪いで満ちた魔女ではない。
私はこの構造に、きらら系に代表する日常系を連想する。
それこそまどマギのキャラクターデザインを担当している蒼樹うめ先生によるひだまりスケッチが顕著だが、日常系に不幸せな少女は現れない。
それもそのはず。日常系を摂取する受け手は、不幸な女の子など見たくもないのだ。そしてそれは受け手の求めるものを提供する、物語世界における存在の否定とイコール。まどかによる改変世界は、このきらら系に代表する少女たちが幸福でなければならない世界構造と酷似している。
希望を信じられた魔法少女である作中のさやかは、消滅の瀬戸際で一抹の後悔に涙を流し、続編である叛逆の物語では実際に後悔の念を語っていた。そして何より、まどマギ宇宙に象徴するインキュベーターによる搾取の構図は規模の縮小こそあれど、無くなることなどついになかった。
まどマギにおける搾取が、アイドル文化に起因するキャラクター消費やデータベース消費を表していることは想像に易く、感情エネルギーのパイプ役となるインキュベーターはさながらアイドルにとってのプロデューサーや物語にとっての作家であり、少女たちの感情エネルギーを無尽蔵に消費し渇望するのは紛れもなくオタクたちだ。
オタクたちは改変前の世界から少女たちの『希望』や『絶望』を、まどかによる改変後の世界では『幸福』を摂取し、絶望を求められない改変後の世界において不幸な少女は存在そのものを認められない。
こういった少女たちを襲う搾取の構造(システム)は、少女たちには無くすことなどできないし、受け手である我々こそが諸悪の根源なのかもしれない。それこそがTVシリーズ版まどか☆マギカの提示した結論であり『世界の本質』だ。(叛逆の物語については後述)
果たして、オタクカルチャーへと投じられた本質は、長きにわたり我々の頭を悩ませた。
其れはまるで「Vanitas vanitatum et omnia vanitas」。ニヒリズムになぞらえたかの教義のように、祈りすら虚しい行為であると誤認する。
少女たちに捧げる『祈り』は、偽りだったのか。
少女たちの幸福を願う行為は、過ちだったのか。
絶望の命題に、ブルーアーカイブはこう応える。
2.私は好きじゃないんです!
真実面で『世界の本質』を騙るニヒリズムに、愛する日常、青春を破壊されたヒフミ。
あまりに残酷な真実に一度は心が折れかけるも、先生と補習授業部の仲間の言葉に突き動かされ、そのこころのまま、テロリストの前で啖呵を切るまでに至った。
啖呵は親友を襲う『世界の本質』を否定するところから始まる。
阿慈谷ヒフミは普通の女の子だ。試験をオタク趣味でブっちぎり、ブラックマーケットに頻出し、覆面テロ集団のリーダーだとしても、彼女の本質は友達と何気ない日常を過ごす女子高生でしかない。
そんな少女に出来る、等身大の精一杯こそ『好きじゃない』。
人殺しとして育てられた親友の生い立ち。真っ暗闇のバッドエンド、Vanitas vanitatum。
そういった類の『真実』を、「好きじゃない」の一言で一蹴する。
少女に出来る事はそれだけで、それだけじゃ世界は変わらない。
それでも尚、少女は叫ぶ。
今度は自分の「好き」を、大好きなハッピーエンドを。
世界の本質とは対極にある概念を、一心不乱に叫び続ける。
──世界が応えた。
天空を覆う暗雲が、少女の高らかな宣言に染まるが如く青空へと変貌した。
それは間違いなく奇跡の類で、アリウススクワッドに象徴する虚無主義者たちは実質の教義へ対する反証に「あり得ない」と困惑する。
そして先生という大人による、大人のやり方(エデン条約機構の上書き)で周到なテロ(大人のやり方)は収束に向かった。
この啖呵こそ俗に云う『ブルーアーカイブ宣言』であり、俗称ながらもブルーアーカイブの名を冠したこの宣言は、ブルアカを象徴する一幕と言っても何ら過言ではない。
この一幕の中に、幾つかピックアップしたい要素がある。
前述した『好きじゃない』についてはひと先ずここまでとし、次章からは『ハッピーエンド』『奇跡』、そして『大人のカード』について考えたい。
3.阿慈谷ヒフミのハッピーエンド;反まどか☆マギカとしてのブルーアーカイブ
ヒフミが大好きな『ハッピーエンド』とは何か。これは単純に幸せな終わり方のことだ。
が、しかし。ヒフミの掲げたそれは、まどかの願った「今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい」とは似て異なる。ヒフミのハッピーエンドとまどかの願いを比較してみると、両者とも『笑顔』をゴールとしていること、そこに至る過程がそれぞれ違うこと等が窺える。また、ここで言う『笑顔』は『幸福』を指していることは想像に難くない。
ヒフミのハッピーエンドを少し解体してみよう。ヒフミは自身の好きなハッピーエンドについて「友情で苦難を乗り越え、努力がきちんと報われて、辛いことはお友達と慰め合って、苦しいことがあっても、誰もが最後は笑顔になれる。そんなハッピーエンド」と説明している。
二つを見比べると、まどかの願いが「最後まで笑顔でいること」であり、ヒフミのハッピーエンドが「最後は笑顔になれるような終わり方」であることが解る。
これについて、まどかの願いが「過程まで含め最後まで笑顔で迎えよう」という趣旨であるのに対し、ヒフミのハッピーエンドが「辛く苦しい過程でも、最後は笑顔で迎えてほしい」といった旨のものであると捉えられる。
まどかの願いの欠点は、その美しすぎる祈りを実現させてしまったことにある。結果的に祈りは幸福ではなくなった、幸福になれるかもしれなかった少女たちを消し去ってしまった。まどかが救ったのはあくまで祈りを抱く魔法少女であり、呪いに満ちた魔女じゃない。まどかが救ったつもりでいる魔女とはかつての魔法少女のことであり、今を生きる魔女ではないのだ。
そんなまどかの祈りが消し去った少女、魔女の存在も、ヒフミのハッピーエンドは抱擁してくれる。魔女たちも生きたまま幸せな最後を迎えるべき。世界の本質を「好きじゃない」で一蹴したヒフミはそうあるべきだと考えている。
ヒフミの宣言は、まどマギが提唱した世界の本質を真っ向から批判する内容となっている。ややこしい言葉を並べてきたが、ブルーアーカイブ宣言とはつまるところ「理不尽な本質や真実なんか好きじゃない。私が好きなのは苦難を友情努力勝利で乗り越える『ハッピーエンド』だ。これが私たちの青春であり、他の誰でもない私たちの物語。私たちの物語を、誰にも邪魔させはしない」というような内容だ。この姿勢はまどかの願いと酷似しているが、先述の通りヒフミの提唱する『ハッピーエンド』に関してはある種反まどか☆マギカ的ともいえる。
また、ブルーアーカイブというIPは「近い将来、現在主流の重々しさに対するカウンターとして、明るさ、カジュアルさの需要が高まるのでは」という業界分析を、企画の段階で根底に敷いていることが開発者インタビューで明かされている。
ここまですると槍玉に上げるようだが、企画段階(数年前)のオタクカルチャーで存在感を放っていた重々しい作品といえば、年月は経っていようと「魔法少女まどか☆マギカ」は現役だ。寧ろ、日本のカルチャーにおいては殿兼牽引役としての役割も担っていたことだろう。ブルアカはその時代の分析がベースになっている。
これは余談だが、みんな大好きキム・ヨンハ総括Pは別のインタビューにて、多忙で近年の流行を追えておらず、10年代のアニメの話にばかり言及することを暴露されている。(韓国語のインタビューはGoogle翻訳で割と読めるようになる。Google様様)
また、ブルーアーカイブのシナリオディレクター及びメインライターを担当しているヤン・ジュヨン氏(Twitterのアイコンが何故かピカチュウの格好をしたおじさんであることから、通称ピカおじとも)は各所のインタビューでしきりに「エデン条約編はブルーアーカイブの核心ではなく、ブルアカの核心はあくまでギャグを主力とした学園もの」であることを訴えている。
これらインタビューからも解る通り、ブルーアーカイブ宣言とは(俗称ではあるものの)書いて文字の通り『ブルーアーカイブ』というIPの方向性を指し示す宣言であり、ブルアカの本懐は暗く苦しい物語などではなく、明るく楽しい少女たちの日常なのだ。
そして。このヒフミの叫びに物語の舞台であるキヴォトスは呼応した。少女たちのハッピーエンドを手助けするかのように晴れ渡る空。その青空を前にして、アリウススクワッドのヒヨリは「奇跡」と見紛う。
ブルーアーカイブの名を掲げた宣言を肯定する世界と、現象としての『奇跡』。
次章ではブルーアーカイブにおける『奇跡』とは何なのかについて考える。
4.友達と世界、『奇跡』について
私たちの物語以外にも、ブルアカには象徴的な『奇跡』の描写が幾つかある。本章ではそれらについてさらいたい。
尚、この章の内容は以前投稿した記事と重複する部分があるため、その点についても留意していただきたい。
まずは公式のキャッチコピー。「学園×青春×物語RPG」「透き通るような世界観」など、未プレイの人でも見覚えのありそうなキャッチコピーが特徴的な本作だが、ブルーアーカイブの公式HPを開いて、最初に目に飛び込んでくるのはこういった一文だ。
「学園の日常を小さな奇跡へ」。先述した開発者インタビューにもある通り、ブルアカの核心は学園ものだ。これだけでは一見意味が分かりそうで分からない一文だが、このキャッチコピーが他のどれよりもブルーアーカイブを表しているように私は感じる。
私たちの物語。キャッチコピー。ここまでで分かる通り、ブルアカには二種類の『奇跡』が存在する。次はその二つが印象的に対比される、ユメとホシノの一幕を読んでみよう。
このやり取りから、二人の奇跡観を垣間見ることができる。
ユメにとっての奇跡とは「ホシノと一緒にいられること」。荒廃したアビドスでは、大袈裟でもなんでもなく、日常が奇跡の連続となる。当たり前の日常こそが、かけがえのない奇跡。ホシノよりも多くを経験してきたユメには、そのことがよく分かっていた。
対するホシノにとっての奇跡とは「もっとすごくて、珍しいもの」。奇跡を現実に「起きっこないもの」と捉えるホシノには、ユメの語る奇跡が理解できなかった。
両者の語る奇跡をこれまでに挙げた二つの奇跡に当て嵌めると、ユメの奇跡観がキャッチコピー的、ホシノの奇跡観が私たちの物語的であると読むことができる。
当たり前の日常をかけがえのない奇跡とするユメの奇跡観は「学園の日常を小さな奇跡へ」そのものだ。ストーリー上の露出が少ない分、ブルアカの誰よりもキャッチコピーを体現しているキャラとすらいえよう。
そして「奇跡なんて起きっこない」「奇跡というのはもっとすごくて、珍しいもののこと」と考えるかつてのホシノの奇跡観はより現実的な、一般に想像する奇跡と同じなのだろう。
しかし私たちの物語では、起きっこないものとされていた奇跡が起きた。これはどういうことか。
推測するに、キヴォトスでは稀にホシノが謳うような、それこそ私たちの物語のような奇跡が実際に起きるのだろう。
ここで一つ仮説を唱えたい。私たちの物語のような起きっこないとされている奇跡は、少女の祈りによって発生するのではないだろうか。
私たちの物語で、空を包む暗雲はヒフミの宣言に応えるような形で開かれた。この時ヒフミはアズサ、ひいては補習授業部という友達の幸せを祈り言葉に乗せていた。
思うにキヴォトスとは、こういった少女の祈りに応えてくれる場所なのではないだろうか。それも自分自身ではなく、他人の幸せを祈れる人に応える形で。
繰り返しにはなるが、ブルーアーカイブのキャッチコピーは「学園の日常を小さな奇跡へ」だ。そして、学園の日常を小さな奇跡へと変えるのは上記から友達の存在であると推測できる。
ここで、友達に関するもう一つの奇跡について紹介させてほしい。
パヴァーヌ編第1章17話にて、モモイがG.Bibleの言い伝えを語る場面。あるカリスマ開発者がG.Bibleを「ゲーム開発における秘技。みんなが知っているようで、誰も知らなかった奇跡」と評している。
「みんなが知っているようで、誰も知らなかった奇跡」というフレーズが、ブルアカのキャッチコピー「学園の日常を小さな奇跡に」を想起させ、この評そのものが『ブルーアーカイブ』というゲームが「ゲームとして志しているもの」を端的に表しているよう感じさせる。
ブルアカにおいて、奇跡とはしばしば『夢』という言葉に置き換えられる。この一幕で挙げられている夢も、ブルーアーカイブ的な奇跡、「学園の日常を小さな奇跡に」の類だろう。(ブルーアーカイブ的な奇跡の体現者として先に挙げた『ユメ』の名前も示唆的)
では『愛』とは何か。これはゲームで人を楽しませる心のことだ。パヴァーヌ編第1章ではあらゆる場面で自分たちの遊んでいるゲームや、自分たちが開発しているゲームがユーザーにどんな体験を与えるのかを考察している。
G.Bibleの語る真実とは、要するに「ユーザー体験」に重きを置くべし!ということだろう。そして、開発者にとってのユーザー体験とは他人を思う心そのもの。不特定多数の悪意にさらされたユズが一時ゲーム開発から離れかけたのも、他人を思う余裕を失っていたからだ。
そんなユズのゲーム愛をつなぎとめた仲間(友達)こそモモミドの二人。ユズの与えた体験は『志を共にする仲間』という奇跡を呼んで、ユズの愛は無事に世界へと発信された。
そして3人の注いだ愛を受け取ったアリスは、その愛をG.Bibleの真実に絶望する3人へと還元し、後のゲーム開発ではミレニアムプライスという大舞台で特別賞を受賞。アリスを含めた4人の愛はキヴォトス中に伝播するまでに至った。
パヴァーヌ編におけるゲームの役割とはそこにある。ゲームを介した愛(ユーザー体験、或いは奇跡)の伝播。パヴァーヌ編におけるゲームとは正しく『ブルーアーカイブ』そのものに秘めた核心を物語っており、プレイヤーである我々はブルーアーカイブというゲームを通して様々な愛を得た。そういう意味ではある種、G.Bibleの本質である「ゲームを愛しなさい!」はパヴァーヌ編におけるブルーアーカイブ宣言とさえいえるだろう。
それもそのはずで、ブルーアーカイブの日本パブリッシャーであるYosterは公式サイトやインタビューなど至るメディアで「ユーザーの視点を大切にできる人」を採用していると話している。
印象的な出来事でいえば昨年はヤケクソ補填(ゲーム内イベントが原因で発生した一連の騒動)が大きく取り沙汰されたが、ブルアカは初期から継続してユーザビリティの向上に努めており、その体験が致命的に削がれる事態に陥った際、身を切ってでもユーザビリティを優先する(してしまう)ようなIPだ。
ここから更なる盛り上がりを見せるパヴァーヌ編第2章がエデン条約編以降の更新となったのも、一貫性を持ってメインストーリーの中で題材を発展させる意味合いが込められていたのだろう。これから読む人は、是非その点にも注目してほしい。
しかし、なにも愛を与えるだけがソーシャルゲームの役割ではない。企業が制作するゲームには商売という前提があり、ブルアカもその仕組みからは逃れられない。
そして利益(本質)が絡めば美しいテーマは汚れて見えてしまうもの。そういったジレンマとブルアカはどう向き合ったのか。最後に、ブルアカを語るうえで絶対に外せない要素『大人のカード』について考える。
5.大人と子供、先生と生徒;自覚的な禁じ手『大人のカード』
『大人のカード』が何かを語るには、まずはその『大人』、ひいては『先生』について知ってもらう必要がある。
先生について考えるうえで、参考になるのが韓国公式チャンネルでアップロードされているインタビュー動画だ。
※私は韓国語が分からず、また字幕の翻訳精度も低いので、ここでは有志の訳文を参考にさせていただきます。
以下、引用。
また、同氏は後のインタビューにて上記を踏まえた上で、更に踏み込んだ解答を出している。以下、Google翻訳の引用。
要点を絞ると
・ブルアカにおける大人とは年齢的な概念ではない
・大人とは、(その責任を取るかは別として)この世界に責任がある人のこと
・この世界の責任を、生まれたばかりの子供に求めることはできない
・先生とはプレイヤー自身のことであり、性別や年齢は伏せてある
ここで大事なのは「この世界に責任がある人」というワードだ。このワードはブルアカ本編にも「責任を負う者」として登場する。
特に印象的なのが、大人のカードを使ってでもホシノを救い出そうとする先生と、その行動の意図が読めず困惑する黒服のやり取り。
先生は「責任を負う者」として子供たちが負うべきではない責任を背負おうとし、呆れた黒服が自身の大人観を語る。
責任を負う者とは確かに、ブルアカにおける『先生』をもっとも端的に表した言葉といえる。いくらキモかろうがカッコよかろうが、先生には責任を負う者として在るという、一貫した姿勢が備わっている。
そんな先生が唯一使える明確な武器、それこそが『大人のカード』だ。
先生の大人のカードを前にした黒服が語る、大人のカードに関する言及。
また、同じゲマトリアのマエストロは大人のカードについてこう語ってる。
2人の言及から大人のカードの性質を探ると、以下のことが解る。
・使用者の人生(時間)を代価に、ゲマトリアですら未知数の力を得られる
・マエストロ曰く「払ってきた代価」。つまり代価はカードの使用時に払うのではなく、既に支払ったもの
・使用者である先生は、その人生を生活費を始めとした「無意味でくだらないこと」に使うべきだと黒服は考えており、それらは生徒たちよりも大切であると説いている
また、ここまでの作中で大人のカードが武器として使用されようとし、されたのは引用の二か所のみだ。
この2パターンは「生徒たちのみでは決して解決できない、大人によってもたらされた生徒たちの危機」という面で共通している。
先生は大人のカードを安易に持ち出さない。それはルールもなしに乱用してしまえば、ゲマトリアと同じ「権力によって権力の無い者を、知識によって知識の無い者を、力によって力の無い者を支配する大人」になってしまうからだ。
「先の道を生きると書いて『先生』……つまり、『導いてくれる役割』ってことだよね?」とは本章冒頭にも用いたミカの談だが、先生とは子供たちの良き導き手でなければばならない。子供たち(或いは、少女たち)は純粋だ。そして純粋は影響されやすく、導きには慎重になる必要がある。
エデン条約編3章ではアリウススクワッドが明確なヴィランとして立ちはだかっていたが、これに倣えば彼女たちもれっきとした被害者といえるだろう。本来ならば責任を負うべき大人に、あまつさえ仕込まれるのが殺人とあってはあまりに惨たらしい。
大人のカードとはそういった、悪意ある大人にのみ使用される。そしてその目的は必ず「この先の生徒たちの幸せのため」であり、先生の志とヒフミのハッピーエンドはこの点において、望む場所を共にしてるといえる。だから先生は権力を行使し、ETOの書き換えという「大人のやり方」さえ実行に移せたのだ。
しかし先述の通り、大人のカードには代価が存在する。では、代価とは何か。
これは多くの人が察する通り「プレイヤーが『ブルーアーカイブ』というゲームを遊んでいた時間」のことだろう。使用者の人生、時間を指し、既に支払っているもの。カードを使用して現れるのがプレイヤーの育成してきた生徒たちと来ればもう確信的だ。
そして大切なのが、これらヒントがブルーアーカイブの作中に散りばめられているという点だ。これにより、ブルーアーカイブという作品は、プレイヤーの人生を削っていることに自覚的である、と結論付けることができる。
人生とは、何もブルーアーカイブを遊んだ時間に限った話ではない。お金、思考、創作、そして祈り。一生において計り知れないほど貴重なリソースを、ユーザーは『ブルーアーカイブ』というコンテンツに割いている。そのことにブルアカは自覚的なのだ。
ここまで読んで、少女たちの幸せのために代価を要求する大人のカードを醜悪に感じる人もいるかもしれない。しかし、私の見解は違う。
私は、ブルーアーカイブとは私たちの人生というリソースを糧に、少女たちを幸せにしてくれる作品である、と、そう考えている。
キヴォトス、ひいてはブルーアーカイブには、子供たちの幸せのために働く力が2種類ある。
世界(作劇)がほんの少し無理をして融通を効かせてくれる、世界由来の『奇跡』。
そして、先生という正しい裁量を持つ大人の手の内にある限り、実働的に運用されることが約束されている『大人のカード』。
劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語でまどかによる改変世界は悪魔ほむらによって再構成されるが、作中の描写から悪魔ほむらによって改変された世界では、ソウルジェムの浄化をインキュベーターと彼らの文明が行っていることを推測できる。
その結果宇宙におけるエネルギーの総量に矛盾が生じ、いずれは宇宙が崩壊するとまでされていたが、少なくともこのシステムはインキュベーターによる搾取の構図をひっくり返すことに成功している。
ブルーアーカイブが構築しているのも正にこういった類のシステムで、まどマギと違いブルアカでは感情エネルギーではない別の何か(生徒たちが持つ『神性』にまつわる何か。これについては知識が浅いので他をあたってみてほしい)が搾取の対象とされている。それによってキヴォトスや外部の世界がどうなるのかについてまだ未知数であり、考えるには時期尚早といったところだろう。
ブルアカの大人たちはそれに加え単純な、権力や立場を利用した大人>子供の労働力搾取も行っている。一般的とされる生活をそれによって破滅させられた生徒も少なくない。
キヴォドスには子供たちを搾取する、ゲマトリアを始めとした悪い大人たちも蔓延っている。でも、それでもキヴォトスそのものは祈りに肯定的な空間であると、私はそう思わずにはいられない。
それは偏に「そうあってほしい」という祈りでしかないが、ブルアカはその祈りに応えてくれる。ハッピーエンドを掲げる宣言を、BlueArchiveの名を交えて打ち出してくれている。
歪で虚しいかもしれないが、これは私にとっての希望だ。そう思えるほどに、私はブルアカから多くの『愛』を受け取っている。キャラクター、物語、音楽、なんでもいい。私の人生はブルアカによって間違いなく彩られた。
ブルーアーカイブという作品は少女たちの幸せを『ハッピーエンド』という形で肯定し、願わせてくれる。そして、プレイヤーは少女たちの日常を噛みしめながら苦楽を共にし、少女たちが幸せに向かうための手助けをすることができる。
これこそがブルーアーカイブというゲームがゲームたる所以であり、長期的にサービスを提供するソーシャルゲームである理由。言ってしまえば、ブルーアーカイブというゲームが提供しているのは『正しい祈りの成就』なのだ。
結び.少女たちに「幸せであるべき」と願うこと
かくして、少女たちへの祈りは肯定された。最後は簡単に総括を行って本記事の結びとする。
まず、少女たちに「幸せであるべき」と願うことは、間違っているのか。
これは、間違っていない。「幸せであるべき」とは同時に「幸せでなくてはならない」という否定も孕んでいるが、少なくともブルーアーカイブは『ハッピーエンド』という形式で少女たちへの祈りを肯定している。
加えてこの『ハッピーエンド』はブルアカ以外の作品にも適用することが可能であり、この祈りは幸せでなくなった少女の存在も否定しない。
そんな中でブルアカが特別なのは、ブルアカの舞台であるキヴォドスそのものが祈りを肯定してくれる場所であるということ。キヴォトスは『奇跡』という形で少女たちに祝福を授ける。
またプレイヤーも先生として『大人のカード』を媒介し、少女たちの幸せを手助けすることができる。しかし大人のカードの使用には慎重になる必要があり、使いどころを見誤れば作中の悪い大人と同じになってしまう。よって、先生(プレイヤー)は少女たちのため「責任を負う者」であり続けなければならない。
『大人のカード』はプレイヤーの人生と引き換えに、少女たちの先の幸せを勝ち取るための力。この際削られるのはここまでブルーアーカイブに使ってきた時間そのものであり、それらは使用する時点で既に「削られたもの」として消費される。
またブルアカは人生の消費に自覚的な反面、ユーザー体験に重きを置くIPでもある。よってブルーアーカイブはプレイヤーの人生というリソースを糧に『正しい祈りの成就』というユーザー体験を提供してくれるゲームといえるだろう。
私がブルアカを真に愛したのは、この構造に気が付いたその時だった。そんな私の気づきを多数の人に共有し、共感してもらうことを目的として執筆されたのがこの記事だ。そして共感してくれる方が一人でもいれば、それはブルアカが云うところの『奇跡』の類だと、私はそう考えている。
最後になってしまったが、この記事こそが私の『愛』だ。
どうかこの愛が、一人でも多くの人のもとへ届きますように……。
おまけ.エデン条約編3章読了時点で薦められるオススメ動画のコーナー
まずはここまで読んでくだった方々、誠にありがとうございました。本記事は以上となり、以下は私が個人的にオススメしたいエデン条約編3章読了時点で見ても良い動画の紹介コーナーです。何本か載せますので、気になったものは是非見てみてください!
【ブルアカ】3rd PV
まずはこちら。公式チャンネルにてアップロードされているブルアカの本PV第3弾。本記事のサムネイルにも用いたこの動画は、公開から1年が経とうとしている今でも味のする化け物動画。見る度にブルアカが好きになり、全生徒が愛おしくてたまらなくなる最高の作品です。地味に含まれているエデン条約編のネタバレだけがネックで新規の先生方には薦め辛い本動画ですが、エデン条約編を3章まで見たあなたはもう見れます。イチオシ。
[Blue Archive] 🎵 2022 Sound Archive Concert 🎵
続いてはこちら。海外版公式チャンネルにて公開されている演奏動画、Sound Archive Cocertです。作曲陣が自ら演奏する本動画は40分超の大ボリューム。ここでしか聞けないアレンジが満載で、つい何度も見てしまいます。
[Blue Archive]X DJ TAK BGM REMIX_2021 Ver.
また、同様に海外公式チャンネルにて投稿されているこちらのDJ動画、X DJ TAK BGM REMIX_2021 Ver.もオススメです。私はどちらも、体がセトリとアレンジを覚える程度にはリピートしています。
【MAD】青色の本音【ブルーアーカイブ】
続いてはMADです。エデン条約編を3章までで一本の動画に収めた本作。クオリティがとてつもなく高く、自作の3Dモデルを交えた演出の数々は中々真似できるものではありません。随所に散りばめられたアイディアの数々も楽しい。
卯月コウ:「ブルーアーカイブ」再生リスト
最後はこちら。にじさんじ所属のバーチャルライバー卯月コウ氏によるブルアカ実況です。そもそも本記事は氏のエデン条約編第3章の完結記念……という名目で投稿されたものですが、ご覧になっていない方もいらっしゃるかと思います。
卯月コウ氏は独特な感性と言い回しが人気な配信者です。彼のトークや配信スタイルは好みが分かれるものの、ハマれば替えの利かない唯一無二の男へと様変わり。
かくいう私も氏の活動をずっと追っており、ブルアカを始めたのも彼の案件配信が影響です。(氏はそれから暫くブルアカを遊んでいなかった)
そんな彼が昨年の夏ごろブルアカを再開し、ストーリー実況をするまでになったのは正に夢のような状態。ユズの言葉を借りるなら「これ以上は、欲張りかもだけど、叶うなら、私はこの夢が……この先も、終わらないでほしい」といったところ。いや本当に、ずっと続けてほしい……。
また、彼が用語集を欲しているのを目にしたときは、作った経験もないのに迷わず用語集を自作し送りつけたりもしました。
結果配信で採用され、思いのほか活用されていたのが嬉しかったり。
私事になってしまいましたが、彼の実況は唯一無二という意味でとてもオススメです。未見の方は是非。
長々と続きましたが、おまけも以上となります。
本当に、本当にありがとうございました。
『ブルーアーカイブ』©2020 NAT GAMES Co., Ltd. All Rights Reserved.©2020 Yostar, Inc. All Rights Reserved.