【ブルアカ】錠前サオリのブルーアーカイブ(或いは『奇跡』の話)
さて、私はこう思った。
サオリのVanitasって、なんだかブルーアーカイブ的じゃないか?と。
1.ブルーアーカイブにおける、幾つかの『奇跡』
ブルアカでは、しばしば『奇跡』という言葉が象徴的に用いられる。
本題に入る前に、それら奇跡について紹介させてほしい。暫しお付き合い願います。
1-1.例えば、ユメとホシノ
メインストーリーvol.1対策委員会編2章12話にて回想されるホシノの記憶。
アビドス砂祭りを想い奇跡を夢見るユメと、現実を前に理想を語るユメに対して苛立つホシノ。
奇跡なんて、起きっこない。ユメの楽観主義とホシノの現実主義が垣間見える一幕で、ホシノは奇跡に冷ややかな視線を送る。
メインストーリーvol.1対策委員会編2章19話にて回想される、ホシノとユメの奇跡観。
ユメにとっての奇跡とは、「ホシノと一緒にいられること」
荒廃したアビドスでは、大袈裟でもなんでもなく、日常が奇跡の連続となる。
当たり前の日常こそが、かけがえのない奇跡。
ホシノよりも多くを経験してきたユメには、そのことが分かっていた。
対するホシノにとっての奇跡とは「もっとすごくて、珍しいもの」
奇跡を現実に「起きっこないもの」と捉えるホシノには、ユメの語る奇跡が理解できなかった。
メインストーリーvol.1対策委員会編2章12話での、先生とホシノの対話。
奇跡を起きっこないものとして捉えるホシノは然して、ユメの奇跡観を受け継いでいた。
この後、ホシノは奇跡が起きっこないものであることを享受して、それでもユメの語った日常の奇跡を守るため、その身をカイザーPMCに捧げた。
そしてホシノは、もっとすごくて珍しい、日常の奇跡に救われることとなる。が、それはまた別のお話。
1-2.例えば、ブルーアーカイブ
ブルーアーカイブには幾つかキャッチコピーがある。
「学園×青春×物語RPG」や「透き通るような世界観」などは見覚えもあると思うが、実は公式サイトを開いて一番最初に表示されるキャッチコピーは「学園の日常を小さな奇跡へ」という一文だ。
ここで用いられる奇跡とは、1-1.にて言及したユメのそれと同義だろう。というか、何気ない日常に奇跡を見出したユメは、キャッチコピーの一番の体現者とさえ言える。
「学園の日常を小さな奇跡へ」に近しいキャッチコピーは、リリース前のティザーPVにも出てくる。
「日常」が「奇跡」に変わる演出、良い。
余談だが、グローバル版では同コピーを「Your Story Together」と訳している。Storyの字はエフェクトがかかるだけで変化しないが、こちらのキャッチコピーも、2022年6月新PVのような趣があって良い。
(2022年6月新PVのセリフは「夢、希望、苦難、挫折。かつてあなたも歩んだ物語。今度は、生徒さんたちと一緒に」。グロ版のコピーはこっちの訳かも)
1-3.例えば、私たちの物語
俗に言うブルーアーカイブ宣言で、曇り空が晴れるシーン。
言わずと知れた名場面だが、ここにも奇跡についての言及がある。
ここで、ヒヨリとミサキが奇跡と口にしている。
一見、我々がよく知る通りの意味で使用しているようにも見えるが、視方を変えると、ヒヨリは現象の名称として“奇跡”を用いているようにも見える。
また、奇跡なんて無い!と断言するミサキの姿も意味深だ。
前者に絡めた話を今の自分にはできないが、後者のミサキには思うところがある。
『Vanitas vanitatum omnia vanitas』
「全ては虚しい。どこまで行こうとも、全てはただ虚しいものだ」と訳される本文は、アリウス分校で教えられる絶対の教義だ。
作中でも様々な解釈が行き交う本文だが、ここでのミサキは文字通り、全てが虚しい世界には奇跡なんて無い、という意味合いで断言したのだろう。
しかし、教義の解釈は人それぞれだ。アズサ然り、そして、サオリ然り。
2.錠前サオリの
2-1.Vanitas vanitatum omnia vanitas
本題に入って早々唐突ではあるが、ここでとあるブログ記事を紹介・引用したい。
聖園ミカを中心にエデン条約編4章を読み解く記事。当記事の『ミカとサオリとコヘレトの言葉』という章に、こう書かれている。
以下、引用。
引用は一部を抜粋したものなので、是非当記事にも目を通してみてほしい。該当箇所以外も読み応えのある、素晴らしい記事だ。
引用部を要約すると、
・vanitas~の出典である「コヘレトの言葉」はベアトリーチェによって都合よく切り取られ、アリウスの生徒たちは歪んだ解釈を植え付けられていた。
・コヘレトの言葉は本来、「生の謙虚さを教える金言」(ブルーアーカイブの解釈)。伝道者が唯一、やむなく救いとしたことが生活の小さな楽しみであり、伝道者はこの世の不条理を徹底的に嘆きながらも、決して積極的な死を説くことはなかった。
・コヘレトの伝道者は、「神の定めた死という絶対的な結末を前にして、我々人間のやれることの矮小さを繰り返し説きつつも、故に人間にできることは目の前の生を懸命に生きることしかない」ことを説いている。
・「強大な「大人」を前に、なんとか苦しみの現実に抗って懸命に手繰り寄せようとした生存戦略」こそが、サオリのVanitas vanitatum omnia vanitasと共にある姿勢であり、他の何を犠牲にしようともアリウスを生かす姿勢でもある。
・サオリのドライな現実主義的な姿勢は、伝導者の徹底した現実主義のそれと通じるものがあり、希望を持とうとするアズサよりも、希望がなくとも生を諦めないサオリの姿勢は、コヘレトの言葉を重く受け止めていることになる。
さて、私はこの記事の引用部分を読んでこう思った。
サオリのVanitasって、なんだかブルーアーカイブ的じゃないか?と。
2-2.Blue Archive
一から整理しよう。
先ず、vanitasというのは、コヘレトの言葉をブルーアーカイブが解釈した「生の謙虚さを教える金言」のこと。
コヘレトの言葉を重く受け止めているサオリは自分を含めたアリウスの生を諦めておらず、その現実主義的な姿勢は正に、生の謙虚さを身をもって体現していると言える。
そして引用の通り、コヘレトの言葉の伝道者は、全てが虚しい世界で、やむなく生活の小さな楽しみを唯一の救いとしていた。
生活の小さな楽しみ。
やんわりと、どこか見覚えはないだろうか。
そう、「学園の日常を小さな奇跡へ」。1-2.で挙げたブルーアーカイブのキャッチコピーだ。
ここで1-1.で触れた、ユメとホシノの奇跡観について振り返りたい。
ユメにとっての奇跡とは「ホシノと一緒にいられること」
当たり前の日常を奇跡と解釈したのが、ユメの奇跡観だ。
対するホシノにとっての奇跡とは「もっとすごくて、珍しいもの」
現実主義のホシノは、奇跡を起こりっこないものとして捉えている。
さて、こうは考えられないだろうか。
二人の根底にはVanitas vanitatum omnia vanitasに近しいもの、現実主義がある、と。
当たり前の日常を奇跡と解釈するには一度、『当たり前の日常』を重く受け止める必要がある。
そして、当たり前の日常を重く受け止めるには、現実主義、そして生への謙虚を経由する必要がある。
日常への、起こりっこないものという認識。
全てが虚しい世界で、それでも生を諦めず、生活の小さな楽しみに救いを見出すこと。
荒廃したアビドスにおける生活で、ユメは奇しくもVanitasと同じ、生の謙虚さに辿り着いていた。(或いは、ユメは元アリウス生徒?)
そして、生の謙虚さを携え生活していたユメのもとに、小鳥遊ホシノは現れた。
夢みたいなことだった。奇跡みたいなものだった。
その時。全てが虚しい世界で、ホシノとの日常が、ユメにとっての小さな楽しみになった。
また、かつてのホシノも現実主義者だ。
奇跡を起こりっこないものと認識していた彼女は、ユメの死によって日常を見つめなおした。
その時。当たり前の日常が、ホシノにとっての奇跡になった。
ブルーアーカイブのキャッチコピーである「学園の日常を小さな奇跡へ」と、コヘレトの言葉の伝道者が救いとした「生活の小さな楽しみ」。
つまるところ、コヘレトの言葉の核心を捉えていたサオリのVanitasとは、ブルーアーカイブ的に「生の謙虚さを教える金言」でありつつ、「学園の日常を小さな奇跡」にする、足がかり的な現実主義の教えなのではないだろうか。
ユメやホシノがそうだったように、現実主義者には日常を奇跡に変えるだけの素養がある。
そう。錠前サオリはVanitasの模範的体現者であるのと同時に、ユメと同じく、ブルーアーカイブの体現者にもなり得るのだ。
現実主義のサオリには、日常に奇跡を見出す素養があり、そしてそれは(例えば阿慈谷ヒフミのように)高らかに宣言することもできるだろう。
時折次にブルーアーカイブ宣言をするのは誰なのか、といった旨の議論を見かけるが(この議論を初めて目にしたとき、自分にない発想だったので素直に驚いた)、それは意外と、錠前サオリなのかもしれない。
「私たちの、小さな奇跡の物語」
錠前サオリ。彼女が日常を掴み、そこに奇跡を見出すのは、そう遠くない未来の話と願いたい。
3.おわりに
引用させて頂いた記事を読んだときから構想はあったものの、こういったテキストをまとめる経験の浅さから尻込みしていたところに舞い込んだハニバ生放送の告知。
エデン条約編4章後編が来る前にいっそのこと書いてしまおう!と長年鑑賞用にだけ使っていたnoteアカウントをメール認証するところから始めて形にした記事でした。如何でしたでしょうか…………
記事中でもふわっと言及したユメ元アリウス生徒説や、希死念慮を抱えたミサキの現実主義が、生を全うするサオリのVanitasと相反していて、日常の奇跡に届かなそうなのが怖い、といった話もしたいのですが、それだけだとイマイチ味気ないので保留です(ミサキは未所持につき絆ストーリーも未履修なので、そっちにヒントがあっても怖い)。まあ、ミサキに関してはサオリのVanitasと補い合っているんでしょう。
非常に拙い文章になってしまいましたが、少しでも楽しめていただけていれば幸いです。ありがとうございました。
※追記(2022/07/24)
ふとゲーム開発部が恋しくなってパヴァーヌを再読したところ、ここでも『奇跡』が象徴的に用いられていたので、この場にて紹介させていただきます。
以下、メインストーリーvol.2時計じかけの花のパヴァーヌ編1章の重要なネタバレ有。
メインストーリーvol.2時計じかけの花のパヴァーヌ編1章17話、モモイがG.Bibleの言い伝えを語る場面。
あるカリスマ開発者(誰)がG.Bibleを「ゲーム開発における秘技。みんなが知っているようで、誰も知らなかった奇跡」と評している。
「みんなが知っているようで、誰も知らなかった奇跡」というフレーズが、ブルアカのキャッチコピー「学園の日常を小さな奇跡に」を想起させ、この評が『ブルーアーカイブ』というゲームがゲームとして志しているものを端的に表しているよう感じさせます。そうして提示される回答が『ゲームを愛しなさい』なのも、後述するゲーム開発部の時間や努力を肯定していて美しい……。
メインストーリーvol.2時計じかけの花のパヴァーヌ編1章18話の、テイルズ・サガ・クロニクル(TSC)を遊んだアリスがくれた感想で、夢が叶ったユズ。
ここでのユズもユメ同様、奇跡(或いは日常)に『夢』を叶えられたと言える。
痛みの過程は違えど、ユズにもTSCの酷評で現実を思い知らされた過去があります。
生の謙虚を知る程には至らずとも、部室に引きこもるまで追い込まれ傷ついたユズは、自身のゲームを面白いと言ってくれるモモミドと出会い、その仲間たちと切磋琢磨しTSCを完成させた経緯を持ちます。
ユズはこの過程でモモミドに救われ、そのモモミドが偶然拾ったアリスによって思いは成就され、ゲーム開発やそこに費やした時間も努力も肯定されました。
そして奇跡(モモミドとの出会い)がもたらしたその時間は、いつしかユズにとっての日常となっていました。
このことを思うと、日常を奇跡に、奇跡を日常に変えるのは現実主義と出会いであり、生への謙虚は必ずしも持ち合わせる必要のないものとして描かれていることが分かります。
様々な角度から一貫したテーマを描くブルアカの姿勢、私は大好きです。
読んでくださったみなさんへ、改めて感謝の気持ちを送ります。私の拙い文章を読んでくださる貴方の存在も、私にとっては奇跡です。
※見よう見まねの勢いで書き上げたので、至らない点などありましたらご指摘ください。善処します。
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